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   16歳シャラポア(ロシア)がジャパンオープンで初優勝を勝ち取りました。
  見事と言うしかないですね。見出しには大きく天才少女となっていましたが、
  一度の優勝で天才少女になるかどうかは今後の成績次第、それは見守るとして、
  素質は充分にあると思われました。
  何より感心したのは年齢を感じさせない確りとした考え方でした。

   チャンピオンの素質として求められているのは、リードされても諦めない強さを持つ
  ことと言い切る精神面の強さは大変なものです。
  とても16歳とは思えないほどの強かさを持っています。日本では高校1年生、
  くじ運や今回はシード選手が敗退した点で恵まれていたと言う観戦記もありますが、
  それにしても並大抵の実力でないことは間違いないでしょう。

   彼女の陰に隠れていますが、ノーシードで立ち上がりシャラポアと優勝を競った
  カプロス(ハンガリー)も19歳、フルセットの結果は決して遜色の無い力を持っている
  と思われます。
  しかし、勝負の世界の厳しさ、スコアでは殆ど彼我の差はないように思えても、
  僅かな差でシャラポアが脚光を浴び、カプロスが劣の仲間入りになるのです。

   このように他国では精鋭が続々と誕生しているにも関わらず、
  日本ではどうして芽生えないのでしょう。
  優秀な人材はいてもスポーツ界は相変わらず多彩な動きで、
  その中から俊英をピップアップする余裕すらないのでしょう。
  どこかの国で芽生えたものが、いつのまにか日本へ渡り、まるで国技のように宣伝され
  選手が乱立しています。

   多くの選手がいろいろなスポーツを楽しむのは良いことです。
  しかし、大事なのは楽しむことと、競技することを同じレベルで考えないで欲しいのです。
  競技をするには勝敗を決めるべき相手があるのです。
  しかし、楽しむのは勝敗を決める相手との闘いではなく、
  勝敗を抜きにした競い合いにあるのではないでしょうか?


   ジャパンオープンもやっと準決勝になってTV放映が始まったようです。
  テニスのメインイベントとしては寂しい思いです。マイナーとは考えたくないですが、
  メジャーではないようです。日本選手も早々に消えてしまいました。
  一体どうなっているんでしょう。もっと頑張って欲しいですね。

   日本選手の試合後のコメントで、相手選手が数年前まで同じレベルで競っていたのに、
  今は数段上手くなっている。しかし、差はあったけど対等に闘えない相手ではないと思った。
  これは負け惜しみ以外の何者でもないでしょう。
  勝利しなかったのだから抗弁するものはないのです。勝負は時の運とも言いますが・・・。

   いずれにしても、ホームで行うジャパンオープンの準決勝に日本選手が一人も
  参加していないのは悔しい限りです。
  ロシアの新鋭16歳のシャラポワが4強入りを達成し、鈴木がかって同じレベルだった
  タイのスリチャパンに敗戦している。この現実を関係者はどう見るのでしょう。

   鈴木とスリチャパンの試合でも、その差は歴然としており、
  その間に横たわる堀を埋めるのは大変だと感じました。
  試合そのものが、彼にあしらわれているという感じでした。
  好きにされていると言うことでしょうか?
  相手にそのようにされるのは、余裕の問題ではないでしょうか?
  格段に上だとの認識によるものでしょう。

   しかし、今回の不調の原因は残念ながら杉山に尽きるでしょう。
  左手の突き指は考えられない行為です。
  いつもやっているとのコメントがありましたが信じられません。
  サービスを左手で捕まえることがあるでしょうか?
  試合でも練習でも?特に最近ではダブルハンドが多い状態で、
  どうしてそのような動作が出来るでしょう。
  必ずラケットでボールを止めるのが普通と思われますが違うでしょうか?
  咄嗟の不注意に思えてならないのですが・・・・。


   川上・青田時代からの巨人ファンとして、原監督突然の辞任は驚きました。
  オーナーの考えはある面致し方ないものがあるでしょう。
  問題はフロントの立場ではないでしょうか?
  詳細は分かりませんから多弁は致しませんが、
  今回の辞任劇も互いに役割分担を自覚していれば避けられたのではないでしょうか。
  権限だけですべてを解決しようとすれば無理が生じるのは歴然です。

   前回、選手は監督やコーチを選ぶことが出来ないと言いましたが、
  同じように監督など現場の人達もフロントを選ぶことは出来ない立場です。
  その人達に対して、どう対処すべきかを考えなければ、
  彼らの選択肢は辞任するしかないでしょう。

   責任ある立場を与えられた人間は、そう簡単にそれを放棄しないものです。
  それを支えているのがプライドだからです。
  それを敢えて放棄したのはそのプライドを傷つけられたからでしょう。
  他のプロ・スポーツでも勝利できない監督やコーチの辞任劇は日常茶飯事のように
  行われています。致し方ないとは言え、
  その原因へのサポートがなければやってられませんね。

   ジャイアンツ愛、という精神的なイメージを掲げた原監督としては、
  簡単に割り切るのは難しいでしょうが、プロの世界では勝つしかない事実を冷静に見つめ、
  指揮する人間の個人的な感情移入を避ける帝王学を身に付けたと思うしかないでしょう。
  だからといってプレーしている選手も生身の人間ですから、
  簡単には解決できないもどかしさがあります。


   今日久しぶりに後輩の練習を覗いてみました。4月に入部した選手の中に、大学で初めて
  ラケットを握る未経験者がいました。最近では珍しい存在かも知れません。
  それでも懸命にボールを追いかけていました。最近は練習を見ても、
  絶えず参加できるわけではないので無責任になると発言をしなかったのですが、
  とうとう口を挟むことになってしまいました。

   彼女たちの練習で一番気になったのは、フットワークを教えていないことです。
  そのためにボールを追いかけてしまい、安定した体の回転でのスイングが出来ないため、
  手打ちになっているわけです。ボールを打たなければと思いつめる結果でしょうか?

   基礎が充分に出来ていないためでもあるのでしょう。
  ネットへ近づけての球出しをしばらく続けましたが、打球の都度注意をすると、
  次第にボールとの接触が理解できるようになりました。
  注意はいろいろとありましたが、今日は、以下の三点に絞ってみました。

   一点は、バックスイングとフォロースルーでリストを使わないこと。
  フォロースルーでは、ボールの延長線上へラケットを送り込むようにスイングすること。

   二点は、フォアハンドではまず右足を確定してから、
  打球点への足掛かりとなる左足の踏み込みを決めなければならないこと。
  フットワークの原則が充分に理解されていないようです。

   三点は、ボールを体からあまり離さないこと。
  ボールと体の距離を置くと肘が体から離れて脇が大きく開き手打ちになるのです。

   このような解説をしましたが、それだけでも忠実に守れば、腕力でスイングをして、
  自分が動かないで来たボールをいろいろな高さで打つと言う癖はなくなると思われます。
  自分の中のイメージとして、フットワーク良く膝を落として打球するという安定感のある
  フォームを作り上げることが出来るのではないかと思われます。
   エナン・アーディンのUSオープン優勝は見事でした。あの合理的なバランスの良い
  テニスは、基本形だと思っていますから、実力を発揮したことに、
  非常な喜びを感じています。相手に応じてフレキシブルな対応が出来る、
  テニスこそお手本にすべきだと思っています。

   ウイリアム姉妹のように、身体能力が際立っている選手には、
  圧倒されても真似をしなさいとは言えません。しかし、エナンの場合は、
  女子選手の全てに参考となるでしょう。
  難しいかなと思うのは片手によるバックハンドのドライブ・ボールでしょうか?

   いまはラケットが軽量になりましたから、タイミングを間違わなければ女子選手にも
  可能なストロークと思われます。ワングリップでドライブとスライスが併用できれば
  非常に強烈な武器になるでしょう。

   一方、杉山は本当に残念です。特にダブルスの棄権は歯痒い思いをしたことでしょう。
  しかし、パートナーとはこれが最初ではないから諦めは早かったかもしれません。
  いずれにしてもシングル偏重はどうしようもないことなんでしょうね。

   それなのに、日本の高校や大学では、8ゲームマッチやシングルスとダブルスの
  重複出場が、禁止の傾向にあるのはどうしてなんでしょう。
  機会均等の考え方なんでしょうか?それでテニス界が成長するとは思えないのですが
   プロ選手は、自分のプレーで収入を得ていると自覚しなければなりません。
  一方、その収入は観戦者が大半を担っていることも忘れてはいけません。
  だからと言って観戦者に阿る必要は全くありません。
  自分のプレーを懸命に行うのが本来の姿なのです。これは周知のことです。
  でも、その大切なことを忘れている選手が多いように思えてならないのです。

   どうもアマチュア時代の名声を、そのまま引きずっているのではないでしょうか?
  いまは情報過多の時代ですから、いろいろなことが見聞されます。
  これをどのように判断するかはそれぞれですが、
  いつも自分がプレーを懸命にやっているかどうか検証する必要があります。
  日本の場合、スポーツ選手に対して甘さがないでしょうか?
  成績によって直ちに英雄視するところがあります。
  この辺りが、プロとアマとの区分を不明確にするのではないでしょうか?

   自分のプレーで収入を得ているなら、どうあらねばならないか?
  これを考えなければ世界一流にはなれないと思います。
  プロの世界での言い訳は意味がないのです。精神的に幼稚なプロ選手には、
  一度社会人としての仕事をしてもらえば分かるでしょう。深夜にも及ぶ練習と言いますが、
  プロとしてその地位を確保するためには当然のことです。
  深夜残業で頑張っている方たちも、仕事では給料という見返りを貰っているプロなのです。

   先述でプレーと言いましたが、表現を変えると仕事なのです。
  一般的にはスポーツ選手は、自分に与えられた特別の能力を発揮して、
  観客に楽しんで貰うことが務めなのです。嫌な思いも多々あるでしょうが、
  それを一身に受けなければならないのも事実です。
  俗な表現を使えば稼ぎが多いほど毀誉褒貶は多いのです。
  だからといって、それで観客を忌避することは許されないのです。
   USオープンの日本女子選手は大変な活躍ぶりです。
  それぞれ特徴があり個性的な選手が多く楽しみです。
  先日も勝者・敗者のコメントが載っていましたが、その中で気になったことがありました。
  それは「強打された時、そのボールについていけるだけの脚力が必要と思った」でしたが、
  恐らく出場選手に直線距離を走らせたら殆ど差はないと思います。
  ですからそう意味の脚力ではなく、
  瞬発力を伴った予測力のあるものと考えるべきではないでしょうか。
  よく「逆を取る」と言いますが、これは瞬間的なひらめきです。
  自分の基本的なパターンの中に、常時あるものではないと思います。
  予測力は相手の返球のパターンを読み取るものであり、
  「逆を取る」のは経験値でしか果たしえないものと思います。
  それは多用するべきではなく、
  基本は戦略の中で培われた自分自身のスタイルを最後まで貫くことでしょう。
  自分のテニスをする大切さは、それで相手に負けたのであれば、
  自分のテニスを振り返るべきであり、それを他に求めては本来の反省にはならず、
  単に歩みを遅らせるだけではないかと推察されます。

   プロ野球のTVもシーズンの終盤になると、アナウンサーや解説者が
  「この試合は負けられません。負ければ後で後悔することになるでしょう」と
  盛んに言っています。試合は当然勝つことを前提に闘っているわけで、
  負けても良いと思っている監督や選手はいないでしょう。

  スポーツによっては「引き分け」がありますが、
  基本的に勝負は”勝ち・負け”と二分されます。何れかが勝ちまた負けるのです。
  このように黒白が明快になる勝負の世界で、負ければ後悔するでしょうはないと思います。
  懸命になって闘っても負けることはあるのです。
  しかし、それを凌いで次の勝ちに結び付けるには、その勝負を忘れなければなりません。
  それを引きずってはいけないのです。
  気持ちが前の敗戦にあっては勝つことは困難ではないでしょうか。
  いつも新たな気持ちで、次の試合に臨むのが必要ではないかと思われます。
  皮肉な見方をすればアナウンサーも解説者も、選手と同様全試合に臨めば前のような
  言葉は出てこないと思われますが如何でしょう。切羽詰った表現は使い方を間違えると
  良くないのではないでしょうか。
  監督や選手は140試合ある中で優勝を考えているわけです。
  それを忘れての監督・選手批判は慎むべきではないでしょうか?

  それがファンなんだと言うならこれは別物です。
   練習について、真剣な努力こそ人間の最も望ましい価値ある行為である。
   「内的修練」
   1、集中力・闘志を訓練し勝つことを覚える。
   2、他人のプレーを見たり、自分のプレーを分析する。
   3、アドバイスを受ける大切さを知る。
      鵜呑みはいけない。実際に試みることが大切である。
   4、ルールに精通すること。
   テニス道
    Far Sight        高き望みを持て
    Fine Play        好技
    Fighting Spirit  闘志
    Fair Play        立派さ
    道とは静的の美徳の他に動的のものがなくてはならぬ。
   すなわち理想に向かっての烈々たる意気だ。それを完成せんとする努力だ。
   これなくしては道は死物となる。相手の得点をグッドショットと言って褒め、
   相手の失敗をハードラックと痛むスポーツはそうざらにはない。
   テニスは良い伝統を持っている。その伝統を生かすのが我々の務めだ。
   己の誠を以って相手に接することだ。かくして立派にテニス道は成り立つ。
   テニスでは、持久力より瞬発力の向上を目指すべきと言うのが私の持論です。ですから、
  学生時代長距離走は一度の経験もありませんし、後輩に要求した記憶もありません。
  この考え方にはそれぞれの思いがあるでしょうし、私自身にもどれが正解と言うものは
  ないのです。勿論、それに固執する気持ちもありませんし、
  尋ねられたらそう答えるだけです。そのような考え方もあると思ってくだされば幸いです。
  さて、その理由を説明しなければ片手落ちとなります。
  テニスを始めた頃、その考え方を持ちました。学生時代に再確認する研究に参加したことが
  あります。「庭球試合のエネルギー代謝について」の研究で実験台になったのです。
  あらゆるストロークを指示通りにスイングしながら移動し、データを把握する方法でした。
  この結果で知ったのは、ラグビーに次いで激しい運動だと言うことです。
  これは持久力の必要性を認識させるものと思われました。
  しかし、実際のプレーに戻ってみましたが、そのような実感が湧かないのです。
  そんなに激しいスポーツとは思えなかったのです。
  当時はいまと違ってチェンジコートの際もベンチ休憩はありませんでした。
  それでも、先ほどの気持ちは変わらなかったのです。
  このような経験から、持久力より瞬発力が大切と判断したのは、
  テニスでは細かい時間ですが、一時的に動きをストップさせる時間帯があることです。
  プレーが寸断されているのです。これが選手の回復を促がしていると思ったのです。
  パワーの発揮を持続させるものではないなら、持久力を要求されるものでもない
  と言うのが理由の一つです。
  今ひとつの理由は、当初練習コートとパートナーがいなかったため、
  近くにあるお城の城壁を相手に壁打ちをしていました。
  ご存知のように城壁の石は凹凸があり返球は出鱈目です。
  それこそボールを追いかけて右往左往していました、
  しかし、これが身体の瞬間的な動きを良くしてくれたと思っています。
  そのうち多くの石の中でも平たいものを選んで、そこへ集中的にボールを集めるように
  しました。そうなると打球したときに、方向の違いが分かり身体が自然に動くように
  なったのです。テニスにおいて「動き」を重視するなら、
  返球されるボールに如何に反応するかが大切と思ったのです。
   後輩の話を聞くと理由は不明ですが、次の大会から8ゲームマッチでリーグ戦を行い、
  シングルスとダブルスでの重複出場は出来なくなるとか?どのような理由なんでしょうか?
  いま高校がすべてこの方式になっています。どちらかと言えばプロも将にシングルス偏重
  という感じです。独自の考え方はないのでしょうか?
  テニス界もシングルスに強い選手を輩出することのみを考えているのでしょうか?
  テニスの本来的な考え方は、男女のシングルスとダブルス、混合のダブルスとなります。
  いろいろな試合形式をこなして行く、またそれは技術面・体力面に顕著に現れるものです。
  偏った選手の育成は決して良いものとは思えません。もっと本来的な姿を追求することが
  必要と思われます。それによってテニス界の底辺が広がり、ひいては優秀な選手を生み出す
  元になると思われるのですが、如何でしょうか?
  シングルスとダブルスはその内容において全く異質のものです。
  ベースにはスペシャリストを作りたいのでしょうが、偏った選手が生まれるようでは
  問題山積と思われます。
   後輩が先日大阪でインカレを観戦し、大学のトップクラスの熱き闘いに非常な感銘を
  受けたようです。その印象をメールで送ってくれましたが、その中で印象に残った
  言葉についてコメントしてみます。
  一番印象に残ったのは、このレベルになるとマナーがとても良いです。
  という言葉でした。一般的には朝青龍の横綱品格論議が真新しいものですが、
  上に立つ人は自らを律しなければならないのは当然です。
  スポーツによっては勝つことで自動的に上位にランクされますが、
  相撲のように審議会がその位置づけを決めるとなるとこれは難しい問題を抱えるでしょうね。
  マナーの良い選手がメンタル面でも強さを発揮しているのか?
  強くなるとマナーも良くなるのか?これは定かではありません。
  しかし、マナーは全ての選手が基本的なものとして身に着けなければなりません。
  時代は関係ないと思います。
  さて次には、ポーカーフェイスです。
  相手との闘いで単純に技術面だけをチェックしている選手は勝負に対して限界があります。
  勝つためには相手の情報を出来るだけ読み取る必要があります。
  それを両者が試みている場合、一番困るのがポーカーフェイスとなります。
  誰でもいまの心境を表現したい場合があります。そのときに淡々としていたら、
  相手にとって不気味でしょうね。
  気持ちを露わにしない意志の強さが、勝利への道を開いてくれるのではないでしょうか?
  期待していたのは、スライス系のボールをどの程度使っているかでした。
  観戦記の中で随所にありました。思っていたより頻度は高くなっているように思われます。
  自己満足でしかありませんが、やっと個性を出す必要性を感じてくれたのかなと
  喜んでいます。優秀な選手に勝つためには同じことをしていたのでは、
  まず絶対に勝てません。より高いレベルの練習をするか。
  個性を前面に押し出したテニスを開拓するか?
  気になった言葉は、夏は体力勝負でした。これはある面で当然なのですが、
  先日現役からもこの言葉を聞きました。周囲で観戦している人から見れば、
  この暑さの中で大変だなと思うのでしょうが、私の現役時代でも
  (あのころはタイブレークはなかったし、全ての試合が3セットマッチでした)
  炎天下で3・4時間の試合は別に不思議ではなかったのです。
  ですが、体力的に負けたという試合は記憶にありません。
  というより暑くて試合にならないという記憶がないのです。暑いのは夏だから当然のこと、
  またその暑さは両者に満遍なくあるものという意識がありましたから。
  それだけに夏は体力勝負というコメントは気になりました。
  どんなに喉が渇いても、水を飲ましてもらえなかった時代とは違うのでしょうか?
    7月24日の読売新聞で、このたび世界新を出した北島のコーチ紹介が
   ありました。書かれていた”北島と肩を抱き合って、「泣かないと思っていたのに、
   涙が出てしまいました」”というコメントも素晴らしいですが、
   一際異彩を放ったコメントは次の言葉です。
   「一番示したかったのは、日本人でも出来るということ。それは十分見せられたと思う」
   これはとても大切だと思います。コーチは勿論、選手もその気持ちを持ち続けることで
   世界へチャレンジできるからです。久しぶりに胸のすく思いを味わった感じです。
   明治の代、当時あまりの激しい彼我の文化格差に圧倒された日本人は、
   その後も外国に対する劣等感は根強く脱しきれないものがあるように思えます。
   黄色人種の仲間である中国や韓国の選手は、あまり意識していないように思われるので、
   結局は自意識が高すぎるのでしょうか?どうも周囲に気持ちがいってしまい、
   自分がどうあるべきかということへの関心が薄いように思われます。
    勿論すべての選手がそうだとは思いませんが、案外監督やコーチにそのような考え方の
   方が多いのではないかと思われます。間違っていたらごめんなさい。
   アマチュアで監督やコーチが表面に出るのは決して良い傾向とは思いません。
   何故なら監督は基本的に勝つための方法論を考えるのが主務であり、
   コーチはそれに沿った選手を育成するのが主務だからです。
   そうでないと優秀な選手を輩出したとき自分が育てたと勘違いするからです。
   あくまでも縁の下の力持ちであるべきです。
   解説者の難しさを、ウインブルドンの試合を見ながら感じました。
  スポーツ解説ではどうしても結果判断になるのは致し方ないことでしょう。
  それだけに結果の良し悪しのみを言うのではなく、どうしてこの結果になったかを
  解説してくれるべきでしょう。如何に解説者が経験豊富ではあっても、
  プレーしているのは別人ですし、冷静に解説室でみているのと、グラウンドで勝敗を
  肌に感じながらプレーしている選手と同一視すること自体が無謀と思えます。
  最近はアナウンサーが予測的なことを聞いていますが、それで面白いのは、
  それが外れた場合の解説者の反応です。自分が言ったとおりにすれば勝てたのにと
  言い切る場合、冷静にこのような対処の仕方もありますと解説の限界を容認している場合、
  懸命に自分の考えを納得させようとする場合、いろいろあります。
  しかし、本当に解説者は必要なんでしょうか?
  実際に試合を見るため現場にいる方たちへは誰が解説しているんでしょうか?
  解説がないとプレーを見ることが出来ないのでしょうか?
  個人的な意見ですが、私は不要だと思います。
   その理由は、過剰サービスではないかと思われるからです。
  プレーを見ることが出来なかったラジオ放送のときですら解説はなかったものです。
  それを思えば不要だなとつくづく感じます。
  どうしても続けるなら解説者はもっと勉強して欲しいです。
  TV画面で分かることを解説してもらっても意味がないです。
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