2010/5/15
<コーチのあるべき姿>
コーチが選手に望むものは、トータルなレベルアップだと思います。
個性がある意味は、それだけ選手個々で違いがあるのです。
コーチはその違いを際立たせてやるのです。
毎日の練習から得るもの、その積み重ねがその選手を成長させます。
しかし、その成長を自覚するのは集中力ではないでしょうか?
集中する気持ちが自分を高めてくれるのです。
何故なら、戦いの場は千変万化です。「これだ」とパターン化されたものはないのです。 と言うことは、その場面に適合したパワーをどうすれば出せるかにあります。
それを、間違いなく表現するワザは一つしかないと思っています。
それが「集中力」です。
その場で、最高の自分を出せるのは間違いなく自分そのものだからです。
コーチ時代に、素晴らしい素質を持った選手に出会ったことがあります。
呑み込みの速さは他を圧していました。
教えるのが、これほど素晴らしい効果を出してくれるのかと思いました。
しかし、僅か1年でテニス部を退部しました。
膝突き合わせて説得しましたが駄目でした。退部する理由は結局何も言わないまま、
ただテニスは続けたいとサークルへ入りました。
その後、試合見る機会もありましたが、その実力は、
お遊びを脱する程度でテクニックを駆使して試合では勝利していました。
周囲の環境もさることながら部活の難しさを知りました。
高校と違い、大学になるとコーチの選択権は、学校側ではなく選手側にあります。
大学の存続理由から考えて、それは当然ではないかと納得する部分があります。
余程の有名校であれば別でしょうが、
学校側や後援会組織はコーチの必要性を余り認めないようです。
それだけに、先輩後輩の繋がりからコーチの継続はスムースに行われているようです。
コーチの実力判定は、戦績の結果であるのは間違いありません。
どのような高邁な考えを持っていても、結果が出なければコーチとしては失格です。
しかも選手の実力は別としてです。
このような中でコーチの悩みの一つは、サークル活動に近い部活です。
部活のように先輩後輩の関係が希薄ですから、全てにおいて友達感覚です。
和気藹々とやるのが良いのでしょう。
コーチとして一番むつかしいのは「Q」&「A」だと思われます。
選手はそれぞれ自分の立場で尋ねます。
それを、コーチの立場で答えるのはそれほど難しいものではありません。
専門的に答えるだけだからです。大事なのは、選手の立場で考える内容なのです。
それは、その選手を知らなければ、選手が満足する答えを与えられないのです。
質問の意味を知り、それを選手の立場に変換して、
選手が理解出来るように砕いてやらねばいけないのです。
一番大事なのは、選手が理解しそのまま取り入れられなければ意味が無いのです。
それが出来て初めて、選手はコーチを信頼するのです。そうなるとコーチは楽です。
選手が、一旦信頼してくれれば自分の知識をどんどん吸収してくれるからです。
上達したいと考えている選手は、
自分をレベルアップしてくえれる知識の吸収には極めて貪欲です。
だからこそ、自分を分かってくれるコーチの存在は何より求めているのです。
コーチは魔法使いではありません。その選手のすべてを知ろうとする必要はないのです。 選手の個性を知れば、どこを修正すればレベルアップするかは経験で分かるものなのです。
女性を主体に教えましたが、ある意味で社会勉強になりました。
それだけに迂闊な行動は取れません。
熱心さのあまり、特定の選手に懸命になると誤解を招く事になるのです。
それだけに、その時代のキャプテンとは、
今後の方針や選手の育成等で特別な時間を取りましたが、
練習終了後の個人的な接触は殆どありませんでした。
彼女たちに、精神面を少しでもサポート出来ればとの行動はありましたが、
それが過剰になり部内が混乱するのは避けなければなりません。
それは、コーチとして熟慮を要する行動規範です。
その意味から、部活の手伝いという曖昧な感じだったように思われます、
しかし、コーチとしての参加趣旨が選手の育成ですから、
少しでもレベルアップ出来ればそれで満足でした。
22歳から、女子高のコーチを始め、どれほどの選手と関わり合ったか分かりません。
しかし、名前を忘れてもフォームだけは眼に浮かんできます。
伸びた子はすべて印象に残り記憶しています。
これらは、現状ではボランティア活動ですから、虚心坦懐に選手と対応出来ます。
ある意味では、成績に拘る部活の先生には
イライラしたのではないかと今になって感じています。
強くなるだけのテニスではなく、将来子供にもテニスをさせたいと考えて欲しく、
それに沿った指導をしてきたものです。
テニスを一代だけではなく続けて欲しい思いは強いものがあります。
<今月の言葉>
□ 真剣にやらないと面白くない
□ 苦しまなければ喜びはない
□ サッカーに情熱を持つことは一生出来る
□ 年令に関係なく常に進歩する
□ 人は頂点に立つために常に努力するものだ
□ 頭の中をいつもフレッシュに
□ プロとは、どんな状況でも全力を出せる人
サッカー 三浦知良(43歳)
2010/5/1
<コーチのあるべき姿>
指導者としての立場を考えると、実際面では全く変りないと思えるのですが、
現在地元でパソコン教室の講師を担当しています。
内容はエクセルに注力し、受講者は60代の方々です。
指導方針で気を使うのは、レベルが違うための内容です。
基礎は大事だと言いますが、レベルと自分の学びたい方向が違うと、
当然ながらやる気が起きてきません。それでは困るのです。
だからと言って、個人志向でカリキュラムを組むわけにも行かないのです。
あくまでも教室ですから、何かを習得するために来られるわけですから、
それを充実させなければいけません。
それで考えたのは、完成すべき目標物を明確にすることでした。
それもパソコンを習得する目標は大前提ですから、
それ以外でより具体的な設定を考えたわけです。
その対象は、「年賀状」・「カレンダ」・「ポスター」を設定し、
これによって習得する皆さんも、身近な例を学びながら
パソコンの内容を学べるのではないかと好評でした。
このカリキュラムを、すべて自分自身でパソコン画面に表示作成し、
誰でもが理解出来るように部分修正をしたわけです。
それにより目標明確となり完成すると喜びも一入のようです。
不思議な思いをするのですが、
内容を画一化しないために出来上がりがそれぞれ独創的で、同じものが二つとないのです。
画像等を利用した場合、同じものは殆どなく個性的です。
これが、個人を考えた場合妥当な姿ではないかと思うのです。
いろいろな経験値がそこに現れてくるのです。
そこでは優劣を問いません。出来上がることが本来の目的なのです。
このような考え方が、スポーツの世界で採用されたら個性的なスタイルが生かされ、
さらに成長をするのではないかと思います。
大事なのは、個性的な成長を成し遂げるべきなのです。
コーチの基本的なスタンスは、客観的な立場での指導に徹することだと判断しています。
別の表現をするなら、自分の考えに固執してはならないと言う意味でもあるのです。
コーチは、選手を自分以上に育てなければならないのです。
と言うよりすべての人に優れなければならないのです。
そこに自己が存在すると、成長の限界を示すにほかならないのです。
コーチの指導内容は、テクニカル・メンタル・フィジカルと多岐にわたります。
それらは、総括として一人の人間では限界があるのです。
多方面へ知識吸収は大変な作業負担です。
いま、この角度から執筆されたコーチマニュアルは見当たりません。
それぞれ独立した立場で書かれています。
冬季オリンピックの成功に見られたようにチームプレーが必要なのです。
そのように考えると、人間一人の限界を感じると同時に、
それらを纏めて選手を高みに誘導するのも、人間が行っていることを忘れてはなりません。
一人の人間の強さを感じます。
技術的なサポートは、いまほど習得する機会に恵まれている時はないように思われます。
専門の雑誌や単行本が溢れ、習得のチャンスはいくらでもあるように思われます。
そうなると、大事なのはどれを選ぶかではないでしょうか?
すべて駄目だではないのは当然ですが、すべてを取り入れるのは、これも至難の業です。
まず、執筆者の考え方を納得すべきです。
何故なら、これらはすべて一般論であり、特定の方に合わせているわけじゃないのです。
それだけに、その選択方法は難しくなります。
各地でコーチをしている方のご苦労が偲ばれます。
最近のテニス雑誌で気づくのは、やたらと連続写真が掲載されています。
一見それを参考にすれば自分の技術力は増すと思われます。
しかし、プレーは連続技で構成されているのです。
瞬間の画像がベストでも、それは全体の流れの中で生きてくるものです。
部分をとって、良いとか悪いとかではないのです。
全体の流れの中で、その善し悪しが決まるのです。
フォームを固める唯一の方法は、ボールの位置を想定しながら行うスイングの固定です。
このスイングが決まれば打球について、その力量は確実に自分のものとなるのです。
しっかりと自分のものにするのは、ボールを打球するのに腕だけではなく、
身体を使って打球することを、全体のバランスの中で習得するのです。
結果として、コート上で実現されれば良いのです。
基本は打球することです。しかし、ただ来たボールを打球するのではなく、
そのボールが相手をどれほど圧しているかなのです。
その中に、自分の力を如何に実現させるかなのです。
コーチとして、基本だけは崩してはいけません。
基本の積み重ねが全てだと思ってください。特殊な選手が如何に優秀であっても、
すぐそれを模倣してはいけないのです。
フォーム固めに納得出来たら、次の段階がボールの打球です。
それも「球出し」練習です。
フォームを頭の中で描きながら、実践的なスイングにしなければいけないのです。
最初は、ラケットを狙ってボールを出してやるのです。
「球出し」はラケットを使いましょう。それも順回転ではなく逆回転を使いましょう。
ボールの回転は気を付けなければなりません。
必ず、逆回転でボールを送ってください。しかし、強いてスピンを掛けるのではなく、
ラケット面を上向きにしてそのままボールを押すように打ち出してやれば良いのです。
それで、ボールの圧迫感はなくなります。素直なスイングで打球が出来るのです。
順回転のボールは、
相手ラケットに回転の圧力を掛けますからインパクトが乱れてしまうのです。
しかし、逆回転のボールであれば、その圧力はかなり軽減されますから、
押されることもなく練習に合わせたスイングが可能となります。
それで初めて身体を使ったスイングが出来るのです。
このような球出しで、最初に覚えるのが体重の移動です。腕だけのスイングではなく、
身体を使ったスイングだから体重移動のパワーが出せるのです。
威力のあるボールとなるのです。
次に大切な事は、移動時におけるボールの扱いです。
ただ単なるスイングでの体重移動ではなく、
フットワークによる体重移動でボールへのパワーを更に増加させるのです。
テニスは、どのスポーツよりも足を使うスポーツです。
それは相手のミスを誘って勝利するために、
如何に手が届かぬ場所へ打球するかにあります。それを追い掛けるのがテニスなのです。
メモ帖でも、再三に亘って書いて参りましたが、
現状からコーチはどうあるべきかについて、今少し書き加えたいと思います。
至らぬ点は読者各位のご指導を賜りたいと願っております。
<今月の言葉>
議論は自由に、研究室では平等に・・・
物理学者 益川 敏英
プラスを出し合い、マイナスを補う
兼聴則明 けんちょうそくめい
偏信則暗 へんしんそくあん
<多くの意見をよく聴けば、物の道理が分かり
一部の人の意見だけを聴けば、無知のままである>
物理学者 坂田 昌一
2010/4/16
<コーチのあるべき姿>
コーチの基本的なスタンスは、客観的な立場での指導に徹することだと判断しています。
別の表現をするなら、自分の考えに固執してはならないと言う意味でもあるのです。
コーチは、選手を自分以上に育てなければならないのです。
と言うよりすべての人に優れなければならないのです。
そこに自己が存在するのは、成長の限界を示すにほかならないのです。
コーチの指導内容は、テクニカル・メンタル・フィジカルと多岐にわたります。
それらは、総括として一人の人間では限界があるのです。
多方面へ知識吸収は大変な作業負担です。
いま、この角度から執筆されたコーチマニュアルは見当たりません。
それぞれ独立した立場で書かれています。
冬季オリンピックの成功に見られたようにチームプレーが必要なのです。
そのように考えると、人間一人の限界を感じると同時に、
それらを纏めて選手を高みに誘導するのも、人間が行っていることを忘れてはなりません。
反面での一人の人間の強さを感じます。
技術的なサポートは、いまほど習得する機会に恵まれている時はないように思われます。
雑誌や単行本が溢れ、習得のチャンスはいくらでもあるように思われます。
そうなると、大事なのはどれを選ぶかではないでしょうか?
すべて駄目だではないのは当然ですが、
すべてを取り入れるのは、これも至難の業です。
何故なら、これらはすべて一般論であり、特定の方に合わせているわけじゃないのです。
それだけに、各地でコーチをしている方のご苦労が偲ばれます。
最近のテニス雑誌で気づくのは、やたらと連続写真が掲載されています。
一見それを参考にすれば自分の技術力は増すと思われます。
しかし、プレーは連続技で構成されているのです。
瞬間の画像がベストではないのです。全体で一つの技術を表しているのです。
部分をとって、良いとか悪いとかではないと思われます。
全体の流れの中で、その善し悪しが決まるのです。
フォームを固める唯一の方法は、
ボールの位置を想定しながら行うスイングの固定です。
この時に、ボールの打球について、
しっかり自分のものにすべきではないかと思います。
しっかりと自分のものにするのは、ボールを打球するのに腕だけではなく、
身体を使って打球することを、全体のバランスの中で習得するのです。
結果として、コート上で実現されれば良いのです。
基本は打球することです。ただ来たボールを打球するのではなく、
そのボールが相手をどれほど圧しているかなのです。
その中に自分を如何に表現させるかなのです。
コーチとして、基本形だけは崩してはいけません。
基本の積み重ねが全てだと思ってください。
特殊な選手が如何に優秀であっても、すぐそれを模倣してはいけないのです。
フォーム固めが納得出来たら、次の段階がボールの打球です。
それも「球出し」練習です。
フォームを頭の中で描きながら、実践的なスイングにしなければいけないのです。
最初は、ラケットを狙ってボールを出してやるのです。
「球出し」はラケットを使いましょう。それもオーバースピンを使ってはいけません。
ボールの回転は気を付けなければなりません。
必ず、アンダースピンでボールを送ってください。
しかし、強いてスピンを掛けるのではなく、
ラケット面を上向きにしてそのままボールを押すように打ち出してやれば良いのです。
それで、ボールに対する圧迫感はなくなります。素直なスイングで打球が出来るのです。
順回転のボールは、相手ラケットに回転の圧力を掛けますから押されてしまうのです。
しかし、逆回転のボールであれば、その圧力はかなり軽減されますから、
押されることもなく練習に合わせたスイングが可能となります。
それで初めて身体を使ったスイングが出来るのです。
このような球出しで、最初に覚えるのが体重の移動です。
腕だけのスイングではなく、身体を使ったスイングだから
体重移動のパワーが出せるのです。威力のあるボールとなるのです。
次に大切な事は、移動時におけるボールの扱いです。
ただ単なるスイングでの体重移動ではなく、
フットワークによる体重移動でボールへのパワーを更に増加させるのです。
テニスは、どのスポーツよりも足を使うスポーツです。
それは相手のミスを誘って勝利するためには、
如何に手が届かぬ場所へ打球するかにあります。
それを追い掛けるのがテニスなのです。
メモ帖でも、再三に亘って書いて参りましたが、
現状からコーチはどうあるべきかについて、今少し書き加えたいと思います。
至らぬ点は読者各位のご指導を賜りたいと願っております。
<今月の言葉>
修行は一生終わらない
まだ、何か有るんじゃないかと・・・との思い
プロとは、自分の仕事に没頭してもっと上を目指す人だ
寿司職人 小野二郎
ベストを尽くして我慢する
平凡なことを やり切ることが大切だ
プロとは、匠の技を持った人
農業 金子美登
2010/4/1
第271号の冒頭に記載しました。下記の文章で、
「どう変わったのかよく分からない」とのご指摘を頂きました。
返信について、お分かり頂けたかどうか分かりませんが、ここに掲載いたします。
<コーチについて、外国と日本ではその成り立ちに随分の違いがあるようです。
過去のメルマガでも続けて書いてきましたが、
今回のオリンピックで考え方が変わりました>の変わりました・・・理由です。
<以下は、それに対する私の返答です・・・>
女子選手を主体にコーチをして来ましたが、私自身が独学でテニスを習得した関係から、
多分に独善的な部分があったのは否定しません。
そのために心掛けたのは、客観的な見方を大事にするでした。
これは自分の理論に自信はあっても、
それが的確に選手へ伝える難しさを嫌というほど知らされたからです。
自分の思うように育たない場合は、自己不信や自己嫌悪に繋がったものです。
コーチのあるべき姿について、今回のオリンピックで感じたのは、
やはりグループ意識がなくてはいけないと思いました。
一人の存在より数人の考え方の採用です。
今回感じた、高橋選手の身体的なネバリ強さ、キム・エナ選手の強靭な精神面、
これらが身体的な面だけではなく、メンタル面が加味されて効果があると知らされたのです。
両選手のメンタル面が、如何にして育成されたのか?
あらゆる競技のコーチが再認識すべきだと思いました。
今後、本来的には二人の選手を追い掛けるべきでしょうが、それは現実的に不可能です。
そこで、地道にコーチのあるべき姿を追い掛けてみたいと思った次第です。
今後どのような展開になるか分かりませんが、ご批判を頂きたいと思っております。
<最近のスポーツ界から感じたこと>
大相撲の日馬富士が、先日の取組で忠告を受けたようです。
朝青龍がいなくなったら、すぐこのようなことが起きるのですね。
この件で神経質に成っているのでしょうか?
今場所、日馬富士の勝負後の行動に疑問符が付いていたのですが、
豊ノ島戦でアレッと思いました。審判部長は「戦意を失っている者にも、
敬意を表さなくてはいけない」と厳重注意したようです。
関脇の時は、勝負の延長のようで、
このような行為もファイトの塊と好意に受け取られていたでしょうが、
大関になると大人にならなければいけません。
選抜野球大会で、監督の不適切発言が紙上に踊っていました。
侮辱する気はなかったと言っていますが、一度発言すると
それを消すのは大変な努力が必要です。どうして飲み込まなかったのでしょう。
不用意に発言するのは、そう思っているから出るわけで、
本気で思っていないと出るものではないです。
スポーツで大事な、相手を思いやる気持ちの欠如です。自分勝手の行動と思われます。
正直、如何にこの監督が選手育成に長けていたとしても、
指導を受けた選手も同じ考えになるのではと心配です。
相手校が、この発言をどのような気持ちで受け止めたか考えたでしょうか?
高校球児の、野球に対する姿勢を本気で認めていれば、
まず口を突くフレーズではないと思います。どの高校生も、
目標達成に懸命に努力しているのです。それを決して甘く見てはいけません。
監督の言動は、選手にとっては絶対です。
それだけに言葉は慎重に表現しなかればならないのです。平気で発言するのは、
選手に対する侮辱です。実際に動くのは選手です。それを忘れてはいけません。
高野連から、謹慎を命じられたとのプレス報道がありました。
一番冷静であるべき監督が、率先して心を乱し相手校を誹謗するような態度は
許せるものではありません。
この態度を見ていて気づくのは、過去に書いたソフトテニスで、
試合前コートの後部で椅子に座り、大声で叱咤激励?
していた監督らしい先生を思い出しました。
大声を出すと、その勢いに押されて心の中まで乱れてしまいます。
冷静でなければならないと、自制しても勢いは簡単に留まるものではないのです。
一人の人間として見るのがどれほど必要でしょうか?
監督の目標は勝つことだけです。勝つために、その場にいるのは間違いないのです。
しかし、勝つために取るべき手段はどうでも良いのではありません。
どれほど自分を制御しなければならないか?
その鬱憤を選手に向けるようでは監督失格です。
とても、野球を愛している人間とは言えません。
勝つことに自分を埋没しているのではないでしょうか
結局、監督の辞表提出となりました。
こうなると、プレス関連はこぞって監督の熱心さや人となりを擁護しています。
しかし、自分の発言からの事件として責任は取るべきです。
これ以上、鞭打つ気持ちにはなれませんが、
と言ってカンバックを願う気持にもなれません。しばらくの時間が必要だと思うのです。
何故そのような発言をしたのか?確かに疑問は残ります。
オリンピックが終わり、いろいろと関係者は行動しているようです。
チーフコーチの解任や行動規範の作成やら大変です。
行動規範がなかったとは、マニュアル好きの日本人には珍しい行動です。
勿論、行動規範は大事ですが、それに対して誓約書を作成させるとはどうでしょうか?
選手から、誓約書を取らないと行動規範に役員が責任を取れないのでしょうか?
それよりも、選手より役員の参加が多い協会意識こそ、是正しなくてはならないのです? プロでは、一人の選手に一人のコーチです。ならばそれは選手が負担すべきです。
競技ごとの協会組織、選手や参加企業からの献金等、本気でその競技を愛するなら、
手弁当での行動が当然ではないですか?机の前に座って指図する役員は不要です。
いまこそ、コーチの必要性を本気で考えないと、選手は取り残されてしまいます。
外国在住のコーチを慕って選手の移動もあるようです。
それは誰にでも出来るものではありません。
行動規範で、選手から誓約書を取らないと、行動を掌握できないようでは、
何のための監督か役員か分かりません。
もっと毅然とした態度で接しないと有望な選手が奈落の底です。
国母選手についても、一言声を掛けていれば済んでいたのです。
国の代表だからキチンとしろよ!それに反発するなら即刻退団させるべきなのです。
それだけのことを何故これほど大きくしたのでしょう。
2010/3/15
今年の冬季オリンピックで、存在する意味を感じさせたのは、
嬉しいことにコーチの存在でした。
特に、フィギャアスケートでは際立ったものが有りました。
特に個人競技で目立ったようです。
コーチについて、外国と日本ではその成り立ちに随分の違いがあるようです。
過去のメルマガでも続けて書いてきましたが、
今回のオリンピックで考え方が変わりました。
競技内容で、コーチのあり方も随分変わってきます。
それも、個人と団体では随分変わっています。
よく言われるチームワークは、団体でこそ、その妙味を発揮するのです。
コーチの語源は、四輪馬車に由来します。
そこから、目的地へ運ぶ馬車になぞらえて「指導者」を指すようになったのです。
「コーチ」自体は、訓練の意味を指しています。
コーチとは、本来スポーツでレベルアップのため、
選手に技術などを訓練指導する人でした。
このため、従来はその競技の先輩や選手がコーチとして存在していたのです。
しかし、これが現在のコーチィング・システムを崩してしまった気がします。
スポーツは技術だけでは闘えません。それだけで、勝負に立ち向かうのは無理なのです。
このための大きな欠点が、技術を自ら習得したと自負する先輩が、
後輩を半人前にしたのです。それは、自分を主体とした指導でしかないからです。
そこに客観性がないのです。
例えば、高橋大輔選手の場合です。
あれだけの怪我をして見事に立ち直った彼の場合は、コーチの個人能力ではなく、
チームスタッフとしての活動があったからだと思います。
しかし、本当に欲しいのは、自分をメンタル面で
どのように大きくさせるかではないでしょうか?
大舞台で、技術力を凌ぐ精神力の存在をキム・ヨナは感じさせてくれたと思います。
闘うときの張り詰めた気持ちは大切です。
しかし、選手はそれだけに終始してはならないのです。
その激しさの中で、相手や競技仲間を思いやる気持ちを失ってはならないのです。
これからの選手育成の大きな試みは、決して強ければ良いのではないのです。
人間としての、大きさが感じられないようでは、選手として中途半端だと思います。
今回のオリンピックで起きた服装問題も、
このような論点で行くと言うべき言葉もないです。
協議する必要もなく即決断すべきです。
形に嵌めろではないのです。基本ルールを順守するのは当然です。
ただ、スポーツライターの二宮氏が違反行為と認めながら、
出場停止は感情的すぎると書いていました。
その判断は、基本的に規定の中に違反行為罰則が規定されているはずです。
それであれば、その判断は協会に委任すべきであり、
第三者が判断すると混乱するだけです。
もし、規定に罰則項目がないなら、魂の入っていない規定と判断するしかありません。
また、同じ紙面に他国のコーチ談として、
日本の選手育成システムの未熟さを語っています。
勿論、それぞれの国のやり方がありますから、
いずれが正解かは簡単に分かるものではないのです。
しかし、はっきり言えるのは、育成システムでのコーチの存在ではないでしょうか。
コーチの役目は、大きな意味で本人の気づかない部分を、
補佐するのでなくてはならないのです。
コーチについては、日本は選手育成のため、
他国から学ばなければいけないことは多いです。
いずれにしても、スポーツ界では選手育成と同じ程度に尽力すべきと思います。
<デ杯に思うこと>
学生時代は、プロの存在が身近でなかったため、
国別対抗としての存在が大きかったデ杯でした。
すべての目標でした。当時、テニスは男性の競技だったと記憶しています。
しかし、その後何故かコーチ依頼は女子校に限られたため、
高校と大学を遍歴しましたが、その後は男子の試合を見ることが殆どなくなり、
世界への注目も女子に限定されるようになりました。
今回のデ杯も、そのような観点からの観戦ですからクールな思いが強く出ます。
今回の試合で、最初の印象は観客数の少なさです。
まだまだテニスはメジャーではないと知らされました。
女子の華やかさに、男子は負けているのかも知れません。
マスコミが騒ぎすぎるのも問題でしょう。それにしても寂しいものです。
これだけは、男女の別なく大勢の観客に応援して欲しいです。
応援の、選手に対する効果は素晴らしいものがあります。
時折それが実力と勘違いするようですが、
それほど応援は選手に高いモチベーションを喚起するものです。
観客の少なさはスターの不在です。
圧倒的な強さを持つ、スターの不在ほど観客動員を左右するものはないです。
勿論、それがすべてではありませんがもどかしい思いは残ります。
それは、錦織の出現が如実に示しています。
その彼が、今の状態では外国勢をなぎ倒す期待が出てこないのです。
彼の遠征疲労なのか、技術なのかそれは分かりませんが、いささか深刻なようです。
民放のサンデーモーニングで、オリンピックへの参加に選手より
協会役員が多いとの話が出ました。忘れてならないのは遠征費は税金なんです。
恥ずかしいとは思わないのでしょうか?
前からくどいほど言っているように、協会役員を最小限の人数として、
その分若い選手を追加した方が、将来的にどれほど良いものか?
誰でも納得出来るんじゃないですか?
競技一つに、纏め役の協会があるのでしょうから、その数は大変なものだと思います。
参加選手が多い競技種目は幅をきかすのでしょうから、
役員間でもくだらない争いがあるのでしょう。
デ杯が思わぬ方向となりましたが、日頃の形にこだわり、
協会では何をしなければならないかの検討がなく、
役員になるための醜い争いをよく耳にするだけに、いらだたしさを感じるのです。
スポーツマンらしく、選手強化にどうすれば良いかを考え、
そのための長期ビジョンを明確にすべきではないでしょうか?
競技の運営も、若い力を存分に発揮出来るボランテイアが良いと思われますが・・・。
愚痴をいうためのメルマガではありませんから、この辺りで止めますが、
前向きに考えることは愚痴ではありません。
スポーツの良さを多くの人に知ってもらいたいのです。
<錦織の復帰戦>
2008年のディルビーチ国際選手権で初優勝した彼は、
今回第3シードのベッカー(ドイツ)と当り、
3−6、6−1、0−6のスコアで敗退しました。内容的には随分荒っぽい試合でした。
右肘の疲労骨折から立ち直ったように思えましたが、
サービスの安定感のない結果と、アンフォースドエラーの多さに、
とても世界ランカーの姿は見られませんでした。
ランクでは、最高で世界56位になった彼でしたが、
現在は898位に急落しています。世界が厳しいといえば言えますが、
今の彼の状態ではやむを得ない現実なのかも知れません。
11ヶ月の治療休養を経ての試合は、彼の待望久しい復帰戦でした。
試合内容は前述の敗戦でした。休養期間から考えれば、
今日の出場は早すぎたのかも知れません。それにしても余りにも無残でした。
プレーで良いなと思ったのは、相手の動きをよく見ながら対処する姿勢でした。
しかし、それも錦織の術中に嵌ればの感じで、
一つ間違えればそこに厳しい反撃が待ち受けていました。
いずれにしても、サービスミスとアンフォースドエラーの多さには
目を覆うばかりでした。アナウンサーと解説者は、
垣間見られるプレーにかっての錦織を見ていたようですが・・・。
練習の大切さは、誰しもが認めるところですが、
それも実戦との兼ね合いにあるのは間違いないのです。
実戦から離れていた錦織に、多くを望むのは酷ではないでしょうか。
試合終了後の錦織のインタビューは、
周囲のすべてが認めた現状の把握と違いはなかったようです。
まだまだ、従来の錦織の出現には時間が必要と思われます。
好漢愛すべきで、しばらくは好きなように行動させて置くべきでしょう。
そうしないと、またまた大人の思惑で、彼の良さを殺してしまう気がしてなりません。
56位になった事実があるのです。
解説者とアナウンサーの、言葉の端々にもそれが感じられました。
肘の痛みは一朝一夕で治るものではないです。
肘の使い方はラケットの変化で得たものです。私たちの時代にはなかったものです。
2010/3/1
まずは、読者各位に心からお礼を申しあげます。先般より知人として紹介しました。
「特別お知らせ」について、多くの方のお問合せがあったと連絡がありました。
正直、私には経験のないことですから、どの程度の効果があるのか
不明の状態での紹介は不安でした。本人を信頼しての紹介となったわけです。
本当に有難うございました。
<国母選手の態度批判>
私服ではなく団体服装として着用し、それはファッションですは、
どう考えてもないでしょう。
これは、弁解の余地がない国母選手のフライング行動だと思います。
オリンピックは、どれほど優れていても、
個人が自分の意志で参加出来るものではないのです。
それであれば、団体行動に従うのが妥当な判断だと思いますがどうでしょう?
それにしても、協会役員の態度には頭を傾げざるを得ません。
自分達が選んだ選手であれば、始まりから終りまで・・
言うなら結団式から解団式までは管理責務があります。
国母選手の場合、あの状態で離日したのが問題です。
日本ではスーツを着用し同じ姿だったわけではないでしょう。
垣間見ながら、あの程度では良いだろうと判断したのではないですか?
それであれば、国母選手に問題があるのではなく、
協会の役員に問題があると言わざるを得ません。
ここまで来ると、すべてが闇の中となるでしょうから、自浄作用に期待するしかないです。
もし、協会の注意に国母選手が従わなかったのであれば、
それこそ選手団から離脱させるべきです。
どこかのプレスが報じていましたが、シャツをズボンの中に入れれば済むことです。
ただ、規律は絶対に必要ですが問題はその運用です。
今の状況では選手に対して遠慮が多すぎるようです。
そのうち、スポーツはセルフスポーツになる気がしてなりません。
結論として、オリンピックのあるべき姿について再考すべきです。
クーベルタン氏が現状を見たらどのように思うでしょうか?
自分の考えとどこか違うと思うでしょうか?
朝青龍に横綱の品格を求めるならば、
国母選手にはオリンピック選手として品格を問うべきではないでしょうか?
それが平等と言うものです。判断はそれだけで済むのではないかと・・・。
郷に入れば郷に従えは、日本では昔から言われてきたものです。
その意味からからも、オリンピック選手となったなら、
オリンピックの規律に従うのは当然ではないですか?
成人式を迎えた大人であれば、自らがその責を負って選手を辞退すべきで、
大人の叱責にあってあたふたするのは大人じゃないです。
子供なら大人の言うことを聞くべきです。
競技で優勝したら、過去はご破算になると考えるのも、
このような選手を育てた協会の責任を感じます。
朝青龍も、優勝しながら引退させられたじゃないですか?モンゴル人だからですか?
その判断があるならそれは酷すぎます。
会見式でプレスの質問に舌打ちをした態度は、スポーツマンとして恥ずかしい限りです。
それを瞬時に修正しなかった協会も同罪ではないですか?
今日、国母選手の結果が出ました。
これでその後の彼を批判するのはマスコミの餌食になるだけ、
金メダルを取りそれで過去を払拭しようと思ったのでしょうが、目算違いでした。
彼がどのような結果になろうとも、彼の態度や評価が変わるものではないのです。
彼自身が、自分の評価をどのように考えたか?どうかによって得るしかないのです。
結局は自分自身のことです。
人から云々されるものでもなく、自分自身がどのように受け入れたかを考えるべきです。
そこから自分の成長が見られるのです。
彼に言いたいのは、周囲の言葉で自分の信念が覆るようでは真実ではないことです。
夢を捨てないで持ち続け、初めて人間として成長するのです。自分を忘れては駄目です。
<錦織・デ杯選出漏れと伊達のウインブルドン予選敗退>
今週は重ねて2つの残念な出来事がありました。
いずれの場合もデビューが華やかっただけに、落日の思いは否めません。
どのような原因なのか分かりませんが、名馬であって欲しいです。
それにしても、次がないですね。
勿論時間の掛かることですから、無いものねだりではないですが、
精神的な強さを持った選手の台頭を願うしかないです。
このような状況を見ると、冬季オリンピックの協会サイドの考え方が気になります。
選手は出来るだけ多くの参加が望ましいのです。
しかし、協会役員の参加はあまりにも多いのでは・・・。
選手を育てる基盤として、協会組織が必要であることは認めます。
部外者が何を言うかと叱正されるかも知れません。
一旦専任されたら根を生やしたように居座るのはどうでしょう。
先日来プレスを賑わした大相撲の協会騒動は。当然あってしかるべきものが、
何故あれほどに大騒ぎを生むのでしょう。
それは既得権得に首まで浸かっているからでしょう。
それで、どれほどの現状打破が可能なのでしょう。現状打破による改革が、
自分の居座る椅子を根こそぎ取られるのが嫌だから、現状に固執するのですか?
国からもらうお金は国民の税金です。天下り議員のお金ではないのです。
でも、まるで自分の金だと言うように振舞っては居ませんか?
このようなことを言っていたら際限がないです。
要するに言いたいのは、世界に通じる選手を育てる組織にしなくてはいけないのです。
協会の役員は、最低限で定期的な交代を実施して自由闊達な組織にすべきなのです。
年配の選手が活躍しているのは、若手にどうしたんだと叱咤激励していると思っています。
ベテランの活躍は敬服以外にありませんが、
彼らを超える選手が出ないのはどうしてでしょう?
これらのことを、協会の役員はどのように考えているのでしょうか?
これこそ彼らの使命ではないですか?それを充分に反省しないで、
現職に留まる気持ちが理解できません。
協会の発展にも創成期・成熟期・安定期・衰退期など、表現はいろいろでしょうが、
流れの起伏はあるものです。
大事なのは、すべて自分が責任を持って処理するべきなのです。
人それぞれに持ち味があるように、
協会の進捗にも時期によって変化があって当然なのです。
決して、自分がすべてを可能となすと思ってはならないのです。
自己満足は協会の衰退に及びます。
女子スケートの闘いが終りました。二人のスケーテングは素晴らしいかったです。
特に、キム・ヨナ選手の集中力は、人間でなしうる全てを包含していると思われます。
これは、彼女の実力に加味された、魔力としか表現するものがありません。
浅田選手は、実力を発揮しきれなかった悔しさが溢れました。
虚心坦懐が如何に難しいかを知らされました。
<今月の言葉>
□ 仕事で後向きになると辛いには自分だ。
□ 与えられた仕事を全うするのがプロ。
牛田 貢平 ー ダイヤ作成
□ オリンピックに勝つには、地道な練習しかない。
ラテラ・コーチ ー モーグル
□ 82歳で現状不満足
<まだ、何かあるんじゃないかとの思い>
□ 修行は一生終わらない
□ 自分の仕事に没頭して、更に上を目指す・・プロ
小野 二郎
□ 四つ葉のクローバーを見つけるために、
三つ葉のクローバーを踏みにじってはいけない。
幸せはそんな風に探すものではない。
2010/2/15
<後輩のテニス事始め>
今年になって、初めての練習に出掛けました。約2ヶ月近い冬休みで、
これからどのような練習をするのか楽しみでした。
しかし、その期待は裏切られました。これは部活ではなく遊びです。
何を目的に、練習をするのかが全く分かりません。
昨年最後の練習に参加してその気持は伝えたはずですが、全く通じていないようです。
期待するだけ失望は大きくなって行ます。
失望の第一は、余りにも長い冬休みです。
この間の準備鍛錬を計画的に伝えているなら良いのですが、
スポーツマンの身体は継続的な訓練で鍛えられるのです。途切れては最初から出直しです。
長い休みがどれほど無駄かは、誰でもが容易に納得出来ることです。
スポーツでは、先を目指して無駄をなくすることが必要なのです。
次のステップを成功させるためにも大事なのです。
失望の第2は、寒い時期の練習で大事なのは、
基礎的な練習の必要性を納得させ実施することです。
基礎練習は、繰り返し行うから効果が出るのです。地道な活動を継続して欲しいです。
例えば、当日練習試合でのサービスですが、全くサービスの形を持っていません。
ゲームを、スムースに進めるには、
入れば良いと言う単純な行動でしかないようでは進歩はないです。
失望の第3は、まるで練習を楽しんでいる風景でした。
過酷な練習では笑顔や笑い声はあり得ないのです。
歯を食いしばる思いの練習だからこそ効果もあるのです。自分の物になるのです。
試合でのリラックスした笑顔は、気持ちを和らげますが、
練習ではそれほどの態度が許される選手はどれほどいるでしょうか?
それほど自信を持って対処出来る選手がどれほど居るでしょうか
失望の第4は、練習がどのような目的で実施されているかが皆目不明です。
キャプテンからの指示は出ているのでしょうが、
それをチェックしているかどうかも不明です。
練習については、どのような目的でこの練習をしているかを、
全員に知らされなければいけないのです。
それがあるから、それに対して自分がどうあるべきかを知るからです。
失望の第5は、自分自身が課題を持って、練習に向かっていない事実です。
それを認識していれば、克服するためにこの練習で、
自分は何をどうすればよいのかが分かるのです。
しかし、誰一人としてそのような姿を見ることは出来ませんでした。
昨年末、3人の先輩が今後の心構えとして、どうあるべきかを語ったはずですが、
馬耳東風とはこの事実でしょうか
自分はプロではないから、テニスを楽しめば良いんだと言うなら、
それはそれでも良いでしょう。しかし、一生懸命に努力している人から見れば、
そのような選手が同じ場所に居るのは迷惑です。
この失望の数々も、私から言えば良いのでしょうが、それを言うことはないです。
大学生で、話さなくとも分からないようでは、
取り組む姿勢を問われて返答出来ないでしょう。
与えられて身に付くものではないです。未知への挑戦の中で、
苦しみからの脱却を試みることで、初めて知るのではないかと思います。
人から聞いて身に付くほど、技術の習得は容易ではないです。
これは人生においても同じだと思います。90歳を超えて、
なおかつ未だ何かがあるんじゃないかと、将来を見据えている芸術家は多くいらっしゃる。
スポーツでも人生でも終りはないのです。
<スピンダルのカンバック>
ダウンヒルレーサーとして、トップクラスの「スピンダル」のカンバックについて、
NHKTVの放映がありました。その経過はとても興味がある素晴らしいものでした。
140KM/Hダウンヒルを駆け抜ける、そのテクニックも素晴らしいものがありますが、
競技から感じられるのは、恐怖心が湧かないのかとの思いでした。
大会で大きな事故が発生し、その状態では到底カンバックは不可能とされていました。
しかし、彼はその中で立ち上がり復活優勝を遂げたのです。
快挙としか良いようのない場面でした。
彼が強く持っていたのは、迫まりくる恐怖心との戦いでした。
それは彼が否定しても、脳の反応を見ると、はっきり残っていると判断されたのです。
トラウマがあったのです。
彼は、自分が持つ限界点をアップしなければ闘えないと知り、
それを克服するには、恐怖心に正面から立ち向かうべきと思い、
それには何故あの事故を起こしたのかを考えたのです。
このような、恐怖心を持ちながら何故闘えたのか?
それは「まばたき」でした。人間は、通常1分間に20回のまばたきをするそうです。
その一瞬の、「まばたき」のたびに視覚情報を失うのです。
この考えは、他のスポーツでもあるそうです。
例えば卓球や剣道がその範疇に入るようです。
一瞬の動きの中で「視覚情報」を失うと、次の行動が起こしにくいと居われているのです。
スピンダルの競技中の「眼」の動きは、
競技中2分間での「まばたき」は1回だったと言われます。
まばたきをしない集中力で、迫りくる恐怖心を避けたと思われます。
より高い変化で、脳に刺激を与え達成感を得たのです。
これがスピンダルの復活優勝だったのです。
彼が注目した「心と肉体の限界値は」どこにあるのか?彼は自分の限界に挑戦したのです。
僅かな文面では、その経緯を伝えるのに充分ではありませんが、
恐怖心をどのように克服したかを知りたかったのです。
それを成し得るのは、他人ではなくあくまでも自分自身であることを知りました。
事故の場面を見ると、とても再挑戦する気持ちにはなれません。
しかし、自分の限界点をどのように扱うか、自分に与えられた課題へ挑戦した勇気は、
どのスポーツに携わっていても必要です。
<朝青龍の引退>
型破りの横綱でしたが、小さい体で大きな人を倒すのは痛快な思いです。
しかし、横綱の立場を充分理解出来なかったようです。
名大関で済ませていればよかったのでしょうか?。
勝敗を決するのに、土俵上で鬼になるのは結構です。
それでなくては勝ことすら難しいでしょう。
しかし、それが相手に対して、あからさまになるのは決して誉められないです。
でも、引退会見を拝見して、高砂親方には失望しました。
この親方には、力士の育成は不可能だと思いました。
それだけに、朝青龍に同情の念が湧きました。
「鬼の目に涙」を二人とも知らなかったのでしょう。
相手を思いやる気持ちを失っては、勝負への鬼の気持ちはまさしく喧嘩です。
とても横綱とは言えません。
大関までは降格があるのです。しかし、横綱は引退しかないのです。
この絶対的なルールを、結局は理解出来なかった朝青龍は、
ある面不幸な横綱と言うよりなかったのです。
品格のなさを繰り返して、三役を昇格したり降格しているうちに、
相撲道の真髄を知れば、それこそ大横綱になったでしょう。
余りにも早めに上り詰めた結果でしょうか?
上記を記載して数日、やはり日本人の特徴なのか「判官びいき」が始まりました。
これは可哀想は朝青龍に対してではなく、同情する自分に対してではないかと思われます。
反省を言葉にすれば許されるものではないのです。
横審が出した結論に対して、協会はまだ逡巡していたようです。
横綱と言う権威を、粗末にした朝青龍の責任は相当に重いと思われます。
日本人との差がはっきりしたのは、その後の彼の行動でしょう。
国内では収まっていないのに、本人はハワイ旅行?
とてもその心情は理解出来るものではありません。
世情の評論家ではないので、朝青龍の生活態度について、
これ以上付け加える態度は控えますが、「郷に入れば、郷に従え」は、
他国で生活する際に必要な、極めて常識的な教訓ではないでしょうか。
<今月の言葉>
朝鍛夕練 (ちょうたん・ゆうれん)
宮本武蔵 五輪書 地之巻
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」
練習が完全をもたらす・・意味でしょうか?継続の重要性です。
前後裁断 (ぜんご・さいだん)
沢庵和尚の言葉と言われます。
「過去も未来も裁ち切って、今と言う瞬間に集中する」
今日まさに、なすべきことをなせ・・
2010/2/1
<全豪テニス>
全豪が終りました。何はともあれエナンの活躍は見事です。
優勝出来なかったのはエナンのためには良かったのかも知れません。
あそこまで登りつめれば過信することはないでしょうが・・・。
イヴァノビッチであれば、優勝してもおかしくないと期待していたのですが、
やはり若さなのでしょう?
年齢から考えると致し方ないかと思う気持ちも強いものがあります。
エナン・アーデンの初戦は勝利で終りました。
試合から離れているだけに不安はあったでしょうが、
初戦勝利で先が楽しみでした。一方、シャラポアは無念の敗退です。
日本での期待は、予選通過の新進女子でしたが、
結果として全敗で結局は伊達と森田の2名となりました。
期待を一身に受けプレッシャの中での結果待ちとなりました。
結果だけを列記します。
男子シングルスでは、予選1回戦敗退/伊藤・添田・杉田で2回戦敗退/鈴木
女子シングルスでは予選1回戦敗退/瀬田・土居・米村・藤原・波形
2回戦敗退/奈良・不田
残念ですが、予選からの本戦進出はありませんでした。
これらは、実力判定ですから如何ともなし難いものです。
少しでも早く実力を身につけステップアップして欲しいです。
結局、本選に残ったのは伊達と森田でした。
その伊達は39歳で世界ランク61位、
シュウュドア(カザフスタン)22歳との初戦は4−6・2−6で初戦敗退でした。
試合後のコメントは、「相手に殆どミスが無く、特にバックが良かった。
スライスが有効に使えなかった」その結果として、敗戦を招いたとの説明でした。
一方森田は、32シードのスアレスナバロ(スペイン)と対戦し、
5−7・4−6でスコア的には初戦惜敗となりました。
こうして日本勢はシングルスでは姿を消したのです。
森田の敗戦理由は
「サービスが不安定だった。要所でショットのミスが敗戦に繋がった」で、
二人の弁は、ともに相手が良くて自分が駄目だったと言う内容、
これでは勝てる訳ないです。
これで日本勢は全員姿を消しました。
これからの興味は、エナンとイヴァノビッチしか居ませんでした。
寂しい限りですが、実力の世界ではどうしようもない現実です。
伊達のコメント/プレーは悪くなかった。
相手が良すぎて自分のプレーが出来なかった。
(伊達の強さは相手の弱みを見つけそれを徹底的に攻め抜くことだったはずです)
森田のコメント/相手が、簡単にはポイントを呉れないのに、
私は簡単に挙げてしまった。
(ちょっとした差だが、実際にはゲームに大きな影響を与えてしまった)
基本的な問題提起として、競技に参加する以上年齢は関係ないです。
プロとして生きるのであれば、その環境の中で観客を感動させなければ駄目だと思います。
しかし、新聞報道を先頭に、まるで読者の関心を誘うように、
39歳をアピールしています。
これは闘う両者に、プレッシャーを与えるだけで何のプラスもないです。
感動しないのは、懸命さが伝わらないからです。
学生時代対抗戦での経験では、部員全員がその中に入っていました。
結果に固唾を呑んでいました。浮ついた応援はなかったのです。
それこそ、息を凝らしてラリーを見つめていました。
勝負が決まると、相手チームとはいえ拍手をしてました。
いまでも、静かな雰囲気の中での打球音が残っています。
その中から育つのは、テニスの素晴らしさではないでしょうか?
感動するのはテニスそのものではなく。
それに、全精力を注ぎ込んだプレヤーの真摯な姿ではないかと思います。
そのような観点から眺めると、
伊達や森田のコメントに必死さを感じられないのは私だけでしょうか?
スポーツは一部の人間の特殊な世界ではありません。感動した姿を見せて欲しいです。
優勝したセリーナは見事ですが、
あの体格から来るサービスやストロークは他を圧倒しています。
それだけに、日本人と変わらぬ体格のエナンを応援したいのです。よく頑張りました。
そこで考えるのは、日本選手はエナンをどのように見つめているのでしょうか?
参考になると見ているのでしょうか?
それとも別世界の人と、羨望の目で見ているだけなのでしょうか?
体格が同じであれば、そこに参考となるものがあるのではないかと考えないのでしょうか?
金太郎飴のように、すぐダブルハンドに向かってしまうのが正しいとは思えないのです。
<朝青龍の横綱としての資格判定>
朝青龍の場合は、残念ながら”またか”と言うコメントが付くことでしょう。
これだけでも横綱失格です。
今回の行為は前回のように、最低でも何場所かの出場停止処分でしょう。
以後の同じ行為は、横綱失格の烙印を押されても仕方ないでしょう。
いずれにしても、今回は厳重注意では済まされないと思われます。
それで済ませては、協会の力不足を問われると思われます。
しかも、その行為が場所中となれば言うべき言葉がないです。
その上鍛えられた手を使ったとなると立派な犯罪です。
相撲界の一番上に居る人の行為は罪深いものがあります。
勿論、このような力士を育てた親方への批判もあります。
基本はこうあるべきとの信念が欠落しています。
これは、親方が本気で力士を育てていない証拠でもあるのです。
期待するのは、一門から破門となってまでも、
相撲界の改革をめざした貴乃花の処遇でしょう。
これを、相撲界がどのように遇するか期待があります。
古色蒼然たる背景を打破出来るでしょうか?
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