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2010/10/1
   <東レ・テニス>

   女子選手の育成を目標としているだけに、例年期待している東レテニスが始まりました。
  非常に楽しみです。これから数回にかけて思いを綴ってゆきたいと思っています。

   伊達の連続勝利に周囲は大満足の様子。それは結構ですが、
  TVで見ていて決して快勝と言うレベルではなく、
  相手のミスに勝ちを貰ったという感覚でした。事後に顕著となります。

   さて、もっとも残念なのは、新進気鋭の選手が相次いで、
  予選落ち1回戦敗退した事実です。
  正直なところ、伊達のプレーより彼女たちのプレーが見たかったと思っています。

   伊達の場合は、勝敗で見るなら今回は満点でしょう。
  40歳でよく頑張ったと思う気持ちは強いです。
  しかし、内容に主体を置くなら、プロとして伊達の立場はないと思われます。

   サービスにしてもストロークにしても、相手を含めてあれほど雑なものはないです。
  伊達の作戦勝ちと評価されていますが、私には敗戦した二人とも、
  最悪の状態を見せられたと憤慨してます。

   あれでは、伊達が勝利するのも無理ないし、
  伊達自身でもそのような感じが強かったのではないかと思われます。
  決して会心の勝利ではないはずです。不満一杯だったでしょう。

   伊達が、自分を励ます試合中の「カモン」が、
  何だか空しく聞こえたのは私だけでしょうか?
  テニスが中々メジャーにはなれないと、つくづく感じました。
  これからに期待したいと思います。

   それにしても、応援しているウイズニアッキとアルンの試合は素晴らしかったです。
  これぞプロと文句無しに称えられる内容でした。
  サービス・ストロークすべてが一級品でした。

   今回の東レで見たかったのは、先日紹介した石津幸恵さんです。
  ただコメントに「ストロークでは負けていなかったが気迫に負けた」とありますが、
  チャレンジャーが言うべきことではないです。

   これは、自分が上だと言いたかったのでしょうが、勝ってこそ言える言葉であり、
  これから上を目指す石津さんは、ストロークでは負けたが、
  気迫では負けなかったとありたいです。

   メンタル面がどれほど必要であり、
  自分の意識を高めるものであるかは承知していると思っていましたが、
  技術だけではないことを早めに習得して欲しいものです。頑張ってください。

   伊達とスキヤボーネとの試合は、見ごたえがありました。
  残念だったのは体力的な問題でしょうか?
  伊達のあきらめが随分早いような気がしました。態度に出しては観客に失礼です。

   二人の体格は非常に似通っていますが、年齢は10歳違いです。
  世界ランクは、8位と伊達の67位です。
  ストロークはスピン系のドライブとスライスがあり、
  伊達のライジングに対抗してました。

   敗戦の理由は、ストロークの多彩さではないでしょうか?
  伊達のライジングを警戒し、スピン系で回転数での緩急は、
  ライジング主体の伊達を圧倒していたように思えます。

   いずれにしても試合巧者と言う感じでした。
  伊達もその点では負けていないと思いますが、
  年齢からくる連日の疲労が、伊達の更なる意慾を喪失させていたのではないでしょうか?

   伊達については体力不足を言われていますが、
  伊達がするべき作戦をスキアボーネに先手を取られたと思います。
  冷静に相手を見ていたのは伊達ではなくスキアボーネと感じました。

   森田あゆみは、久しぶりに見ましたががっかりしました。
  確かにレベルはアップしていますが、工夫がないように感じます。
  まず、あのサービスはプロの世界では通用しないです。

   それより、更に気になるのはフォアのダブルハンドです。
  上を目指すなら、ダブルハンドはバックがダブルだけに限界があります。
  ディメンティアのフットワークをどう見たのでしょう。

   彼女のフットワークが出来れば、ダブルハンドでも良いでしょう。
  それほど見事なフットワークでした。相手の気迫に負けたとか、
  サービス力に負けたという前に自分を振り返って欲しいです。

   解説者もアナウンサーも日本選手に甘いです。
  プロだから当然のことを要求すべきで、彼らに同情されたらプロとして失格です。
  精進しなかったら相手に勝つことは出来ないのです。

   周辺の事情も知らないで無茶を言うなと言われるでしょうが、
  観客は目の前の試合を見ているのです。選手の日常生活を見てるのではないのです。
  TVで写ったあなたを見ているのです。

   解説者が、「伊達がコーチのアドバイスを聞いて動いている」と感心してましたが、
  これは当然のことで、聞かないなら何のためにコーチを手元に置くのでしょうか。
  不思議な感想です。

   加えて、コーチのアドバイスを聞かない選手が多いとありましたが、
  それこそ不可思議な現象であり、伊達の態度を褒める日本のテニス界に、
  先行きの不安を感じずにはおれませんでした。

   これらを見るたびに、故福田先生がコートサイドにいらしたら、
  どのような感想を述べられたかと思います。
  きっと「甘えるんじゃないもっと厳しく自分を律せよ」と言われるでしょう。

   今日の最後に一言、立派なコートに素晴らしい選手、
  この戦いに聊か寂しい観客数と感じました。
  テニス人口が、これほど少ないのかと何とも言えない気持ちになりました。


   <イチローの連続200本安打について>

   彼の、精神力の凄さは巷間詳しく伝えられていますが、
  確かに素晴らしいものがあります。彼の類稀な身体能力と努力が相まって、
  誰にも負けない成績を残しているだと思います。

   それだけに、アメリカではなく日本でその素晴らしさをファンに見せて欲しいです。
  画像で見る彼と、球場で見る彼ではファンのインパクトは全く変わるからです。

   しかし、彼がどのような成績を上げようとも、
  拍手をする気持ちになれないのは事実です。
  どのような考えで、アメリカにアタックしたか分かりませんが、
  日本のファンに対する反逆です。

   ですから、彼がピートローズの成績を上回っても、喜ぶ気持ちにはなれないのです。
  アメリカ人が喜ぶとも思えません。
  10年連続でも彼は本気で喜ぶべきなのか周囲を見回しています。

   また、内野安打が多いとも言われています。これはエラー判断と紙一重だからです。
  ゴロであれフライであれ、内野を突破するのが安打と考えているから起きる話題なのです。

   成績判断は難しいものがあります。
  MJBで二日ほど前に相手投手がもたついてセーフになったのがヒットになり、
  日本で殆ど変わらぬ打球が投手エラーとなりました。

   審判や記録員の判断で選手の成績が表示されるのは、
  あくまで人間が判断している事実であり、
  アメリカとの相違に伴う成績を日本と同じに考えることが問題です。

   だからと言って彼を認めないわけではないのです。
  特筆すべきは、彼の競技における集中力です。その場にあるための努力です。
  この二つは誰もが見習わなければならないものです。

   そう考えると、彼が日本でプレーをしていたなら、
  多くの後輩が育ったのではと残念です。
  現役は、自分の充実度をアップするのは当然ですが、
  次に心しなければならないのは後輩の指導です。

   後輩の指導には、コーチとなって行う直接的指導と、
  プレーを見て感じる間接的指導があります。
  そのいずれも後輩を育てるには不可欠なのです。日本は狭いと考えちゃダメです。

   プロは、戦う場を自己満足の場にしてはいけないのです。
  スポーツが成長するのは観客があるからです。
  自ら料金を払って駆けつけるのは、それを目の前で見て感動するからです。

   そのように考えると、自己練磨で外国へ行くのは止めて欲しいものです。
  世界と対抗する手段はいろいろあります。国際大会ならオリンピックがあります。
  それらに注力すべきでしょう。

   スポーツ選手は貪欲です。上を目指すには特別のものがあります。
  それは否定しません。しかし、テニスのフェデラーは、
  スイスを世界に知らしめ社会貢献で自国の英雄でもあるのです。

   最近のスポーツニュースは、個人のデータに終始しています。
  確かに立派な成績ですが、私は一向に耳を欹てる気持ちはありません。
  何故なら日本から離脱した選手に興味はないのです。

   いろいろな方法はあるでしょうが、日本のプロ野球で育った選手であるなら、
  何故そこで頑張らないのでしょう。
  MJBでどれほどの成績を上げても結局は日本人なのです。

   加えて、日本で育ちながら武者修行とかで米国へ行き、
  自分の思う通りに生活している日本選手には何の未練もないです。
  帰ってきて日本のプロ野球で生活するなんてもっての外です。

   それだけに、NHKが日本人の野球愛好家すべてに優先して、
  TV等でMJBを放映するのはどうあっても納得がゆきません。
  どのような成績をあげても日本のスポーツには関係ないのです。


2010/9/15
   <ノーサイド>

   最近、脚光を浴びている言葉です。本来はラグビー用語で試合終了を意味し、
  試合が終われば敵味方の区分はないという、ラグビーでの基本理念を現わした言葉です。

   民主党代表選挙で、盛んに使用されたものですが、その良し悪しは別にして、
  この中身を充分に理解し、スポーツマン精神を享受して頂けるなら、
  使い方はミーハー調でも良いです。

   ラグビーは、ご存知のように身体と身体のぶつかり合いです。
  場合によっては流血の惨事となります。
  その中で、試合中の行動が怨念とならないようにするためなのでしょう。

   素手で戦う・道具で戦う。いずれの場合も、相手を打ちのめすのではなく、
  培った技術を試合の中で競うのです。
  そこには技術の頂点があり、相手との優位さを示すのです。

   ですから、未熟さで敗戦した時には、相手のレベルの高さに敬服し、
  次には少しでも近づけるよう努力するのです。
  勝敗は時の運と言いますが、スポーツの世界では殆どが実力次第です。

   管政権も、折角貴重な言葉を残したのですから、
  それを踏み外すことなく正々堂々と歩んで欲しいものです。
  小沢一郎氏は、これほどの大差が付くとは思っていなかったでしょう。

   それだけに、そのショックは大きい思われます。
  しかし、国会議員の中で民意を承知せず、義理人情に重きを置いた点には失望してます。
  あまりにも主体性のない事実はダブルショックです。

   言い続けると、何ページになるか分かりません。
  政治評論家ではないですから、これ以上の多弁は読者各位にも失礼です。
  テニスの話題に切り替えたいと思います。


   <選手の気概>

   コーチが如何に頑張っても、選手の考え方や行動について不可侵の部分があります。
  それは、選手自体で考えなければならないからです。
  この点で、今回の全米オープンから感じたものを書いて見ます。

   今回の全米オープンは、いろいろと話題を提供してくれます。
  これから、もっと熱い戦いを見せてくれると期待しながら、
  皆さんと同じレベルで観戦したいと思っています。

   最初に感じたのは、伊達でした。シングルスでは精一杯の戦いと思いますが、
  その活躍以上の物を残してくれました。それがダブルスでの森田とのペアです。

   後輩を育てるには、このような方法以外には有り得ないのです。
  コーチが何人いようとも、これに勝るコーチはないのです。
  理屈では分かっていても試合で生かせなければ意味ないのです。

   伊達の行動は、本人の考えを知る由もないですが、
  森田のコメントを聞くとその素晴らしさに同じ喜びを感じます。
  先輩の基本部分の指導は、生半可なコーチを将に凌駕します。

   伊達が試合中に語る言葉は、試合の中でしか発せられない言葉なのです。
  装飾のない実際面で生きてくる言葉なのです。
  だから、パートナーの胸に沁みこんでくるのです。

   いままで、伊達の行動には批判的でしたが、
  今回の行動は後輩を育てる意味が分かってくれたのかと、心から歓迎したい出来事でした。
  試合で得る豊富な経験は何物にも代え難いのです。

   これを考えると、杉山さんの後半はがっかりでした。
  ダブルスで優勝経験の豊富な彼女ではありましたが、唯我独尊で終わったようです。
  試合後の平穏無事からは何も生まれません。

   たとえ負けたとしても、日本人の選手として同じ経験をさせることが、
  後輩にどれほどの重みを持つか分からぬはずはないのです。
  もっと後輩を育てる道を歩んで欲しかったです。

   理論的な指導と実践的な指導は、双方が相俟って効果を出すのであって、
  どちらかが大切ではないのです。
  自らの実績に全力を費やすのも大切ですが、時期がくれば後輩を考え欲しかったです。

   伊達・森田ペアは2回戦で敗退しましたが、観戦した協会側のコメントに、
  森田の得たものは限りなく大きいとありました。
  それが、分かっているなら何故そのようにしないのでしょう。

   試合は、瞬時も休むことなく動いています。メンタル面の必要性は誰しも求めるものです。
  その瞬時に、与えられる言葉はどのようなコーチの言葉より重いのです。

   試合では、コーチの発言や身振り等は許されていません。
  最近は若干変化してますが、それでも休憩時間内僅かな間です。
  しかし、ペアは試合中いつでも会話が可能なのです。

   プロの世界で、厳しい修行と言われる相撲界ですが、
  その練習には他の部屋の関取が出掛けています。
  これも何のために出掛けるか、よく考えれば納得のゆくものです。


   <錦織の棄権敗退>

   前日、五時間に亘る接戦を制して、勝利した錦織には残念でならない結果になりました。
  五体満足で、やっと対戦できる相手に対して、
  足が碌に動かないようでは致し方ないでしょう。

   彼は、次の試合では充分回復すると考えたようですが、
  プロの選手が五時間の戦いで足を痛め、次の試合に参加できないのは、
  屈辱以外の何物もないです。自己管理不足そのものでしょう。

   残念でしたと言うのは簡単です。彼も、自分自身ではそう思っているでしょう。
  しかし、足や肘に爆弾を抱えている錦織は、
  今後を考えると恐らく復帰は困難ではないかと思われます。

   道具の改良とコートサフェースの変更は、足腰への負担を倍加させています。
  特に、錦織の得意技であるケイ・ショットは、体調が完全であるからこそ威力を増すのです。

   彼と比較されるのは、ゴルフの石川遼ではないでしょうか?
  彼のマナーは、どこへ出しても恥ずかしくないものがあります。
  あれこそプロだと言えるものを持っています。

   周囲サポートのメンバーが、しっかりしているのだと思います。
  しかし、プレーするのはあくまでも本人ですから、プレー中のマナーは、
  しっかり心に埋め込まないと窮地では破たんします。

   破たんするのは、別の表現をするなら馬脚を現すとも言います。
  メッキはすぐ剥がれるとも言います。
  一朝一夕には身に付かないことを示しているのです。日頃が大事なのです。

   外国の選手に共通しているのは、自分の現状から得るプラスを、
  如何にして社会へ還元するかとの思いです。
  これがしっかりしているから、プレーの一つ一つに集中できるのです。

   日本選手には、そのような土壌がないですから、
  島国根性と言われるのではないでしょうか?
  ゴルフの場合は、外国選手との接触が多いですから、選手も理解できるのです。

   さて、風が吹き荒れた試合終了に対し、
  かなり多くの選手からクレームが出たようですが、
  これに対し、フェデラーは平然と答えていました。次のコメントはやはり王者の風格です。

   「テニスを始めたときから、サーブの練習をしているんだ。
  どんなときでもサーブは出来る」は、誰しも分かっていて出来てないのです。
  サービスは一人で出来る唯一の練習です。考えて欲しいです。


2010/9/1
   <コーチの判断>

   最近NHKのスポーツ番組で紹介された石津幸恵さんに触れてみたいと思います。
  ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。ウインブルドンジュニア優勝戦で惜敗した女性です。

   17歳新進のテニスプレーヤーと言う内容でした、
  わずか数分間の紹介ですから詳細は分かりません。
  この中で興味を感じた点について私の考えを書いてみます。

   ご本人の弁は、クルム伊達を尊敬しプロ転向を考えているようです。
  コーチは父親ですが、テニス未経験の指導方法がユニークだと思いました。
  同じ思いでアレッという感じでした。

   その1は、テニスの経験が皆無であること。果たして経験のないところから、
  プロ転向まで技術面の指導が出来るのかと言う疑問です。
  不可能とは言いませんが、不思議な気がします。

   その2は、技術面の改革に他のスポーツを取り入れていることです。
  これは私自身諸手を挙げて賛成です。
  このテニスのメモ帖にも書いていますが、これは選手の理解度を高めます。

   その1で、まず感じるのは、親子の信頼関係なのかでした。
  彼女がそれを自分なりに吸収し、結果として良好な場合は、
  停滞することなく前進するものと思われます。

   しかし、いったん挫折した時は、
  その解決方法に苦慮するのではないかと心配するのです。
  それは対象物を、同じジャンルに求める方が解決の手助けになるからです。

   それを敢えてしなかった理由が、その2で
  他のスポーツから解決策を求めたものと思えます。
  それを、一般的な野球に求めたのも頷ける思いをしています。

   日本のコーチの大半が犯している欠点は、コーチの経験律がベースになっている点です。
  これが結局は選手を混乱させてしまうのです。
  経験律は、選手を自分以上にはしないのです。

   ただ、経験をうまく生かすのは、
  同じ分野において貴重であることも否めない事実なのです。
  それは先人が苦労を重ねて開発してきたからです。
  その中から自分に合うものを求めるのです。

   コーチの経験律で行われる危険性は、
  自分がそれで現在の地位を確保してきたと自負するからです。
  それは、その選手を自分以上には出来ない意味を現わしているのです。

   誰でも、自分の考えは正しいと思うものです。
  また、それほどの信念がなければ指導は無理です。
  しかし、それに拘ると、自分以上の能力を持つ選手の判断が付かないのです。

   どのような場合も、自分の知識を披歴するのは大事ですが、
  決して自分の経験に主体性を置いて指導してはならないのです。
  自分の限界を知らなければ選手は止まってしまいます。

   そのような意味では父親の態度に賛成ですが、
  心配なのはご自身にテニスの経験が未知である点です。
  ある意味では、純粋培養でこの世界を闊歩できるかと言う心配です。

   私のテニスコーチ歴は永いですが、いずれも団体が伴うグループが主体でした。
  個人の能力はどうしても無視されがちです。
  そのような中で今でも残念に思っている一人がいました。

   あのまま育てば、文句なくランキング上位に位置したでしょう。
  それは素晴らしい能力の持ち主でした。ともかくバランスが良いのです。
  天性ではないかと思われるほどでした。

   そのバランスの良さを中心にしていますから、
  修正されても大きく変化しているように思えないのです。
  しかし、打たれたボールは格段の違いを見せていたのです。

   サービスのバックスイングで、肘の入りが深いので注意すると瞬間に修正され、
  打たれたサービスは見事でした。これはオーバーではないのです。
  その彼女を手放したのは残念でなりません。

   テニス部に留まるよう説得できなかった結果は、
  テニスサークルへ加入し楽しむテニスに変わってしまいました。
  私が生涯残念でならない事件のひとつです。

   団体競技では、その中で力を示すなら周囲も認めますが、先行き不明だが鍛えれば、
  優秀だから特別訓練をするは認められないのです。これは村八分になるのです。

   これらは、サークルや他クラブ出身者に多く見られます。
  しかし、団体競技の指導で良いところも多いのです。
  テニスに対する心構えや、コート・ラケット・ボールへの心構え等です。

   道場ではないですが、コートへ入る時は一礼をする。終わる時も当然行います。
  ラケットでネットや地面を叩かない。ボールを蹴飛ばすこともしない。
  すべてテニスの守るべきマナーです。

   これが、ひいては相手に対する思いやりになるのです。
  ファインショットや相手のエラーに対してガッツポーズ、
  失敗したからとラケットを地面に打ち壊すなんて即失格です。

   これらは、特別の指導で身に付くものではないのです。
  団体競技で団体生活の中で培われてゆくものです。
  この点で団体生活の必要性を強調したいのです。人間が出来なければ駄目です。

   平津さんの場合、お二人のお考えを主体で行うしかないのですが、
  父上の幅広い指導をお願いしたいです。有名になるとタレントの扱いとなる、
  コーチや指導者に合わないで欲しいです。

   このような表現は寂しいですが、まだ日本ではトータル的なコーチがいないのは確かです。
  テニス愛好家として、そのようなコーチの実現を期待したいです。

   実質的な話として、コーチには何の権利も権限もありません。
  あるのは義務と責任です。これが、スポーツ界での普遍的なコーチ像なのです。
  これでは優秀な選手は育てられません。


   <今月の言葉>

  □ 試合の中で学んでゆく・・・やれば出来ると思う、・・・もっと出来たんじゃないか

  □ いつかメジャーへ・・・モチベーションになる・・・自分自身と戦う姿

  □ プレーボール・・・プレーを楽しめ・・・夢に向かって全力でぶつかる

   <?啄同機・・さいたくどうき>

   雛が誕生するとき、卵の中からコツコツと嘴で世の中への歩みだしを伝えます。
  親鳥はそれを確実に感じ取り、同じタイミングで外から啄んでやります。
  この一瞬のタイミングを言います。

   コーチと選手の関わり合いも、このタイミングが大事だと思います。
  と言うより、コーチがどのようなタイミングで、
  選手のレベルアップを実行するかではないでしょうか?

   テニスも道具が変化し、テニススタイル自体も変わります。
  その内容は多様化し複雑化する傾向にあります。
  それだけに生半可な気持ちで対処すると選手の把握が出来なくなります。


2010/8/15
   <コーチの判断>

   すべての原点は”やる気”。これこそが行動の原動力です。
  しかし、このやる気を持続させるほど難しいものはないのです。
  そこで必要なのは、目標達成で安堵した選手をどう引っ張るかです。

   目標を達成した選手は、うまくコントロールしないとそこで満足し、
  新たな目標の設定が出来なくなります。
  勿論、それを打破できる選手もいますが、それはごく一部の選手です。

   それには、その選手にとってより高いレベルの目標を与えるのです。
  それを充分に理解した選手は、自分自身へプレッシャーを与えて、
  それを乗り越えようと努力します。

   そのステップで大事なのは、決して安易な妥協をしないことなのです。
  それには、それを当面の目標と考えないで、
  達成させるための手段であると認識させるべきなのです。

   選手に君の目標はそこではない、もっと上にあるんだと認識させるべきなのです。
  そのためにも、一つの目標に安住するのではなく、
  新しい目標を続けて求めなければいけないのです。

   その達成に必要とされるのが一生懸命に頑張る姿勢であり、
  これを繰り返しながら自分自身の信念を持ち続け、
  人間としてメンタル面の成長に加味しなければならないのです。

   多くの選手の中には、やる気があって目標達成のためにはどのようにでも頑張るが、
  どうすれば良いのかが分からない。この見極めにコーチの判断が必要となるのです。

   選手の努力が、本当に自分のために為されているのか?
  それともコーチからの助言なのか? メディアに賛美されたいためか?
  だが、あくまでも自分のためでなければ花は咲きません。

   その努力が、人に認めて貰うためであるなら、決して実る物ではないのです。
  それは自分のためではなく、他人のためにしているからです。
  それを精一杯の努力とは言わないのです。

   最近よく耳にする「根性花」があります。
  アスファルトの僅かな隙間から芽を出し爽やかな花を咲かせています。
  誰に見られるものでもなく一人静かに咲いています。

   団地でも造成の拙さなのか、あちこちで根性花が凛とした姿を見せています。
  造成新築時代には見られなかった光景です。
  30年40年を経過して可憐な姿を見せています。

   数年前には見られなかった根性花が、人知れず見るようになったのは、
  継続される努力ではないでしょうか? 誰もが眼もくれない花ですが、
  それを目にすると頑張っているなと言いたくなります。

   地道な努力を続けながら、花や実を付けている。
  特段の結果を求めているのではないのです。
  このように、本当の努力とは誰に見せるものではないのです。
  結果として現れれば良いのです。

   コーチの判断は、いま選手がどのような成長過程にあるか?
  何を求めているか的確に判断できなければ失格です。
  どのような場合でも優勝する選手を求めてはならないのです。

   選手のすべてを把握し、どのような指導を行えば、
  彼が目標を達成出来るかを見届けなければならないのです。
  決して、技術の優劣のみを最終目標としてはいけないのです。

   そのような選手を何人育てても、それが本来のスポーツ選手ではないのです。
  ”恕”の気持ちを絶対に忘れてはならないのです。
  グッドルーザーこそがスポーツマンなのです。

   私の気持ちとしては、すべてここに集約されます。
  しかし、コーチの立場で難しいのはトップの考え方です。
  いろいろな意味から勝利至上主義となりがちな世界です。

   そのような中で、本来のスポーツ精神を順守して欲しいと、
  願っても出来るものではないのです。ただ、コーチにお願いしたいのは、
  在籍して居る間は基本として持ち続けて欲しいのです。

   コーチの選手に対する判断は、進むべき道をうまく誘導することだと思います。
  そのためにも、選手の傍にいて目標達成のために並走して欲しいのです。
  傍観者では駄目です。

   いままでも、コーチの傍に居ながら実力を充分に発揮出来ないで、
  志半ばのまま去った選手もいたと思います。
  それは選手の力不足だけではなくコーチの力量不足も否めません。

   コーチは如何にあるべきか? これはある面で永久課題でもあるのです。
  自分のことは自分でするとは言うものの、
  孤独である選手をサポート出来るのはコーチしかないのです。

   いま、この選手のために自分はどうするべきか? どうすれば支えになるか?
  いろいろな判断が必要となります。
  努力は本人の心構えであり、それを助長させるのはコーチの判断です。


2010/8/2
   <コーチの評価>

   外国でコーチは「監督」と解釈されているようです。勿論スポーツの内容で、
  その判断が異なるのは当然かも知れません。
  私自身は監督の経験はありませんので言及を避けます。

   日本的な表現をするなら、コーチは監督の下部組織であり、
  監督の目的達成のために鋭意努力するのは当然なのです。
  この集大成が勝利となり最終目標である優勝となるのです。

   すべてのスポーツにおいて、最終目的は団体であれ個人であれ
  その区分にかかわらず優勝であり、それ以外の結果は最終目標の達成ではないのです。
  これは参加者全てに言えるのです。

   優勝以外で、満足するのはスタート時点では有り得ないのです。
  だからこそ、参加者(関係者すべてを含め)は優勝出来なかった不足点について、
  全員で反省しなくてはならないのです。

   この時に、2位や3位で満足している参加者から、
  それ以上の進歩を求めるのは無理です。
  自己満足した瞬間に意慾を失っているからです。次を求める意欲を失っているからです。

   コーチの役目は、ここで発揮されなければいけないのです。
  よく戦った充分だ、という表現は優勝校や優勝者にだけ許される特権です。
  それを充分に知らねばいけません。

   もし、数百の中の一つだから無理と考えるのは敗戦思想です。
  それでは今以上の位置に到達は出来ないでしょう。
  優勝するチャンスが絶対にないとは誰にも判断出来なのです。

   そのような中で、敗戦した団体や個人が行う大事は反省です。
  なぜ負けたかを、真剣に考えるから次のステップが生まれてくるのです。
  敗因に存在する諸事を纏めることから始めるのです。

   これを、いち早く成し遂げたところが、次の栄冠を得る近道を察知出来るのです。
  しかし、それは栄冠を約束するものではありません。
  あくまでも道筋を示してくれるだけなのです。

   この敗因の諸事を、解決するための考察に寄与するのがコーチなのです。
  いままでの、経験値から知恵を巡らせ参加者全員が納得する方針を決め、
  今後の手段として表示しなければならないのです。

   コーチの役目は、個人の伸長だけではなく、
  団体としての伸長を考えなければならないのです。これらは量的に膨大なものとなります。
  並大抵の努力でできるものではありません。

   これらの、努力の結晶が大きく結実する結果として、
  優勝があり得ることを忘れてはなりません。
  だから、コーチに一番嬉しい結果は優勝よりも、「良い選手に恵まれました」の想いです。

   新聞のコラムに畑村氏の”失敗学のすすめ”から
  「創造的な設計をするには、失敗から学ぶことが重要」というのがありました。
  前にも書きましたが「グッドルーザー」よりよき敗者たれと同じです。

   このように、失敗の原因をあいまいにしたり、他人のせいにすると
  結局は同じことを繰り返すだけとなるのです。
  よりよき敗者たれは、技術の習得だけに懸命な選手には為し得ないものです。

   勝者から何も得るものはないとも聞かされています。
  これは、よりよき敗者たれとの認識の必要性を更に高めるものです。
  ここに勝者の相手を思いやる優しさが必要となるのです。

   このような、スポーツに対する純粋な気持ちを心の中に培っていれば、
  巷間伝えられるような不祥事が起こるわけがないのです。
  勝者をそれ以上ないと奢るから自分を見失うのです。

   これらすべてが、コーチの範囲内で行われているのを自覚してほしいです。
  先日も試合要領の中に「相手に対する汚いヤジは慎むように」とありました。
  コーチがその機能を果たしてないからです。


   <参議院選挙とスポーツ>

   谷選手が民主党から推薦され当選しました。この瞬間にスポーツから離れるべきです。
  本人が言うように、2足のわらじ3足のわらじを履きこなすの発言は、
  その愚かさに驚くしかないです。

   先人がどれほど苦労して議員生活を重ね、
  結局は何も出来なかった苦しみをどう考えているのでしょう。
  同じ候補者にプロ選手卒業者が多くいました。訴えるものがなくすべて敗退です。

   谷選手も、政治家としては未知であり、そのような境遇でありながら
  何故当選したのか考えているのでしょうか?
  いまの政治家は数の論理で動いています。個人の能力発揮は不可能と思われます。

   ならば、当選した時点でスポーツ競技のすべてを放棄すべきなのです。
  それが周囲の人に必死さを伝える唯一ではないですか?
  彼女の勝ち誇った態度は噴飯ものだという思いが消えません。

   スポーツ選手が当選するのは、その場にいていろいろな議員活動の中で、
  少しでもスポーツ振興に寄与したいと考えるからでしょう。
  それが失敗なのです。一人の力で出来ることは限りがあります。

   与えられた議員席を全うするためには、国民の税金で議員生活をしている
  事実を再確認し、決して自分の実力で当選したのではないことを知るべきです。
  そこからスタートすべきなのです。

   谷選手のいままでの栄光を汚さないためにも、希望したいのは後輩の指導です。
  先人に与えられた義務の一つはスポーツの振興なのです。
  そのための唯一の方法は、コーチとしてあるべき役目遂行です。

   巨人軍OBの中畑氏が、高得票ながら次点で落選しましたが、
  これはよかったと思っています。
  巨人の監督になれないから立候補、と言うコメントに耳を疑うしかないです。
  落ちてよかった。

   一方、石井氏が当選しましたが、これは彼の真摯な姿に引き込まれた方の得票でしょう。
  冗談と本音を取り違えてはどうにもなりません。
  政治の世界に冗談は通じないとどうして考えないのでしょう。

   これから政治の世界へ飛び込み、そこで知らされる自分一人の力の無さを
  噛みしめることです。ジェームス・スチュワートの
  「スミス氏都へ行く」をご覧になれば少しは分かるのでしょうか?


2010/7/15
   <ジュニア・ウインブルドン>

   女子の平津選手の活躍が報じられました。
  接戦を制することが出来なかった悔し涙でしょうか?これはよかったと思います。
  悔しくて自分の不甲斐なさを自覚するから次があるのです。

   TVでの拝見は出来ませんでしたが、今回の活躍ぶりは将来に期待出来ると思います。
  彼女のコメントにある、「大人の試合で優勝したい」に大いなる飛躍を期待したいです。

   反省点として、今後の自己練磨ではメンタル面のさらなる充実が必要と思われます。
  怖いもの知らずの猪突猛進は、メンタル面の完成ではありません。知らないだけです。

   大事なのは、自分のポジショニングを充分に把握した上で、
  試合に臨むことが大事なのです。自分を知り、相手を知ってこそ自分を生かせるのです。
  闇雲に進むのは駄目です。

   石津選手の、ウインブルドン・ジュニア女子決勝は本当に残念でした。
  悔し涙は理解できます。年齢制限があるだけに優勝したかったでしょう。
  大器である彼女の今後に期待しましょう。

   現在の日本ランキングは、アマチュアでトップであり、プロ・アマでも17位ですから、
  今後の期待は大きいです。悔し涙を大切にして大きく育って欲しいです。


   <個人と団体でコーチの役目>

   指導する立場で考えるなら、スポーツの形態が個人および団体の区分はあっても、
  その内容に変化があってはならないのです。
  いずれもその基本は、試合に勝つことだからです。

   しかし、難しいのは競技の内容では個人戦が主体でありながら、
  チームとして団体戦と個人戦が絡む場合があります。
  テニスの場合がそうです。大学や企業の対抗戦がそのようになります。

   一方では、個人技が必要でも団体技として、それぞれポジションがあり、
  勝手な行動は許されません。個人技を、どのように団体の中で表現できるかにあるのです。

   これらは、サッカーや野球に見られる光景です。個人技をレベルアップさせながら、
  試合の展開にどのようなポジショニングをするべきか、明確にしなくてはなりません。

   今回、サッカーでの日本代表は、素晴らしい活躍を見せてくれました。
  しかし、すべて本戦の結果で判断すべきなのに、
  事前のテスト試合の結果判断に右往左往でした。

   すべては本戦の結果です。テストマッチでは、ボロ負けしても本戦には関係ないのです。
  結果としては素晴らしいものです。いろいろありましたが世界で16位です。文句ないです。

   双方の優秀さを認識させただけですが、わずかな差で8位になれた状態です。
  すべての選手が胸を張るべき事実です。それなのに岡田監督は辞意表明です。
  協会の存在を疑います。

   試合が、始まる前から次期監督が取り沙汰されては、岡田氏の心情も納得できます。
  サッカー協会も何を考えているのでしょうか?。
  情けないです。相撲協会と同様の内部整理が必要です。

   どのようなスポーツでも、協会の構成員を内輪で固めては駄目です。
  外部委員が絶対とは言えませんが、
  少なくとも客観的な論点を持つ必要性ははっきりしているのです。

   人間は欲望の塊ですから、一度高みに上るとそれにしがみ付いてしまいます。
  既得権益を失いたくないのでしょう。それは彼らを神格化してしまい、
  平均的な考え方が埋没してしまうのです。

   自分の考え方が正しいと思う気持ちは大切です。人間はだから生きてゆけるのです。
  しかし、時代の変遷は新しいものを求めます。
  そのとき、自分の判断が違っていれば退くべきなのです。

   協会という組織は、傘下のクラブを繁栄させる義務があります。
  しかし、いつの間にか参加クラブの援助金で、
  協会役員が自分勝手な行動をしているとしか思えないのです。

   協会の主たる事業は、クラブ員のために粉骨砕身どれだけ頑張れるかにあります。
  最近の傾向として、100%の賛成ではないですが、
  トップは外部から要請の声も高いものがあります。

   これは、外部から見て現状の協会役員の言動に、
  充分な信頼を置いていない証拠でしょう。
  内部の人間が、協会のすべてを周知しているのが普通です。
  それをうまく使えなければ駄目です。

   よく言われるのに、協会自体が大きくなると身動きが出来なくなり、
  協会内で勝手な自己満足的な禅譲や、身内昇格を平気でやるようになるのです。
  協会はクラブ員のためにあるべきなのです。

   このような常識的な判断が何故出来ないのでしょう。
  その中から優秀な選手が育つとは思えません。
  特出した能力を持つ選手だけが残る、今のシステムに俊英が生まれるはずがないです。

   その顕著たるものが、今回の相撲協会ではないでしょうか?
  周囲の方が何とか修復させようと努力しているのに、
  相撲の分らない人が理事長代行できるのか?はないでしょう。

   そういう発言をする協会側に尋ねたい心境です。
  皆さんが、いままで適切な処理をしていれば今回の騒ぎはなかったのです。
  その張本人が外部の人を相撲知らずと忌避できるでしょうか?

   反省のない協会の役員には総退陣してもらいたいです。
  これで廃業させられた力士は気の毒です。
  臭いものに蓋をという、旧態然とした考えに固執する理事がいる以上は駄目です。

   協会の批判ですが、勿論全ての協会ではないです。
  しかし、身内意識がどこかにありませんか?我々の世界は、
  自分だけが知っていると言う特権意識が協会の正常な姿を失いつつあるのです。

   どのような場合も、協会側に自己反省を求めても、
  身内意識の強い協会内での、自浄能力はあり得ないと思われます。
  すべて内輪の論理が先行するようでは結果は明白です。

   コーチの役目が、とんでもない方向へ飛び火しました。
  最近の傾向に、スポーツに携わる一人としての気持ちを聞いて頂きました。
  次からは方向転換に気遣いながら進めたいです。


   <スポーツ選手・マスメディアの取り扱い>

   テニス界でも、相変わらず嫌な選択が行われています。
  何げなく見ていたTVで錦織の談話がありました。
  ウインブルドンで優勝したナダルを名指しで、勝てない相手ではないとのコメント。

   負けん気は大事ですが、コート外では謙虚な気持ちを忘れては駄目です。
  ナダルはチャンピオンです。相手への敬意を忘れては駄目です。
  このような考えでいるうちは錦織も駄目です。

   TV放映が、テニス界の選手紹介なら錦織より上位の添田にするべきです。
  それが順序だと思います。
  日本のマスコミも、相変わらずこのようなスタイルを続けるようでは駄目です。

   因みに、世界ランキングで、添田豪は118位・錦織圭は189位となっています。
  報道関係者は、スポーツ界は成績順序を最優先すべきです。
  理由はタレントではないからです。


   <相撲界の出来事>

   双葉山時代から相撲は大好きでした。当時の贔屓力士は「名寄岩」でした。
  その後半世紀近く応援しています。その都度ひいき力士は変わりますが、
  ラジオ放送からTVまで続いています。

   最近の騒動は、想像を超えていますから十分に理解できません。
  ただ内輪の賭け事はよく聞かされますし、さして問題にすべきではないと思います。
  要は資金の流れでしょう。

   NHKの放送中止は意味不明でした。
  受信料を取っている公共放送ですから放送する義務があるのです。
  それを見る見ないの選択権は受信者にあるのではないですか?

   懸命に取り組んでいる力士がいるのも事実です。
  アンケートでは反対が多かったから、それだけでの放送禁止はあまりにも短絡的です。
  まして賜杯等の受け取り拒否は噴飯ものです。

   それよりも、相撲界での賭博行為を禁止するべきです。
  そうすれば裏との交流も当然なくなるでしょう。
  今回のように、勝負事をすべて禁止するのは良い結果にはならないと思います。

   どちらと言えば、閉塞感が強い相撲界で自分の範囲で行う勝負事は容認すべきです。
  私は他人が行動する賭け事は嫌いです。
  競輪・競馬、野球・サッカーなど、一度もやってないです。

   しかし、花札・麻雀は長い間経験しています。
  特に、家庭麻雀は両親からの要請(ボケないから)もあり10年近くになります。
  公共ギャンブルが「良」なのは個人の範囲だからでしょう。

   相撲界の小さな社会に閉じ込めてしまって、清廉潔白に相撲道に邁進せよとは、
  あまりにも酷では?
  そのように追い詰めた行為を、それが当然と自信持って言える人がいますか?


2010/7/1
   <試合でコーチの役目>

   ウインブルドンが行われています。
  サッカーも日本が敗戦となったので、少し静かになるでしょうか?
  ウインブルドンでも日本選手は頑張ったのですが、今日現在では勝者0です。

   男子の錦織は、皮肉にもナダルとの対戦でした。
  スコア的には善戦を思わせましたが、
  病み上がりの彼には精一杯の戦いではなかったかと思います。今後に期待したいです。

   残りの男子はあまりにも惨めです。
  勿論、本人は悔しいでしょうが、とても世界へ名乗りを上げる力はないようです。
  やはり錦織のように特別訓練が必要なのでしょうか?

   先輩方々のご努力を考えると、テニスに対する意気込みが違うようです。
  周囲すべての誘惑を避けよとは言いませんが、
  果たしてテニスにどこまで集中しているのか疑問です。

   一方、女子ではその戦いぶりが期待通りだったようです。
  森田や奈良の頑張りは大変なものですが、同年代の外国勢を見るとその脆弱性に、
  疑問符が付くのはどうしようもないようです。

   サッカーの解説に何度か聞いた、
  究極では「同じ人間同士じゃないか」は、単純な強がりではなく、
  もっと身近な戦いを示しているんじゃないかと思います。

   また、「底へ付いたら、やっと足が地につく」と言う言葉も、
  戦う選手の思いをそのまま伝えていると思われます。
  いずれにしても集中することの難しさと大切さを知らされた思いです。

   テニスで敗戦後のコメントは、「悔しい」ではなく非常に冷静であるのに疑問があります。
  それだけ自分を客観的に見ているなら、なぜ試合中にそれを体現しないのでしょう。

   出来なかったのであれば、それは言うまでもなく練習不足です。
  この場合の不足は内容の問題です。出場できるレベルに、達しているかどうかなのです。

   しかし、それは最初から前提としてあるもので、
  それをなぜ超えられないかではないでしょうか?
  それをはっきり見せてくれたのが伊達です。全盛期の伊達なら考えられない敗退ぶりです。

   それでも、日本では女王として君臨しているのです。
  女子選手は、それを自分に与えられた試金石と見なければいけません。
  体調不良が茶飯事のように言葉として出るようでは駄目です。

   それにしても、中国の男女は強いですね。今回の中国の選手の成績は堂々たるものです。
  これは本当に実力がないと難しいものです。
  それだけに日本人のひ弱さに残念な思いがあるのです。

   試合後のコメントも、コーチや評論家のコメントは弱すぎます。
  一生懸命にやったのは選手として当然です。
  当然なことを当然にやったと認めてどうするのでしょう。

   選手が評論家のような表現をしてどうするんでしょう。
  そう思うなら何故そうしなかったんでしょう。
  それを冷静に受け止めていると感心するコーチや評論家もどうかと思います。

   コメントについて・・・これらをどう受け取りますか?
  「最後は疲れてしまった」
  「勝つチャンスもあったが、相手に押されて引いてしまった」
  「自分のテニスをさせてもらえなかった」

   テニスの場合の監督やコーチは、他のスポーツよりもやりにくさがあるのは事実です。
  それは試合が始まると明確となります。どのような場面になっても選手は一人なのです。

   日本の数多くのスポーツの中で、
  試合開始後から監督やコーチの指示を得られないのはテニスだけではないですか?
  これがどのような意味を持っているか選手は理解しているのでしょうか?

   極端ですが、それは「目くばせ」「シグナル・サイン」も含めて伝達行為は×なのです。
  最近試合途中に、コーチのアドバイスを特定時間だけ許されるのも最近なのです。

   これらは妥当だと思います。実際にメンタル面でのサジェスチョンが精々なのです。
  練習の結果が出せないのは選手が未熟だからです。
  試合になって実力以上のものを要求しても出来ません。

   試合におけるコーチの役はどう考えているのでしょう?
  一緒になって作戦を考えますか?
  選手の実力と相手の実力を噛み合わせて結論づけますか?
  自分が出場したいと思いませんか?

   コーチができる範囲は、いままで実施した練習内容を、
  如何にコート上で発揮できるかを見定めるしかないのです。
  手を差し伸べたいと思うなら、それは試合ではなく練習ですべきです。

   メンタル面を、どのように支えてゆくかが、
  コーチや監督の試合に於ける全てではないでしょうか?
  練習の時間は限りなくあります。比べて試合は制限があります。
  みだりに遅延はできないのです。

   数多くある練習の時間を、
  自分の体調や生活環境にマッチさせてゆくべきが本来なのです。
  練習は自分のためにするのです。
  試合はその集大成として良い結果を出すために行うのです。


   <スポーツと参議院選挙に思うこと>

   今回の参議院選挙に関わり、引退する議員の言葉がありました。
  前歴はスポーツマンでした。
  当時立候補の趣旨として、スポーツの振興を目指して頑張るでしたが、
  志半ばで引退するようです。

   その引退理由は、
  もっと身近で選手を育てたい気持に駆られたからとのコメントでした。
  それが素直な気持ちだと思います。
  政治の世界で一人の人間の力など多寡が知れています。

   しかし、それにも拘らず今回もスポーツタレント議員がいます。
  全てが駄目だとは思いません。立派な方もいると思われます。
  しかし、スポーツを続けながら議員活動が出来ますか?

   勇猛果敢だと、自惚れた気持ちに水を差す気持はありませんが、
  人生において中々一つに徹し切れないのに大丈夫でしょうか?
  そのタレント議員に、甘えた気持ちがなかったか疑問です。

   自分に甘えた気持ちとは、自惚れ以外にないです。
  折角の気持に水を差すつもりはありませんから、
  あくまでも初志貫徹を志し悲鳴を上げないで欲しいです。

   正直なところ、スポーツ界も議員活動も舐められたものだという感慨しかないです。
  2足や3足のわらじが履けるわけないのです。
  一つのことに精一杯でない人に何が出来るのでしょう。

   もし当選すれば、国民の税金で給与を支給される認識がどの程度あるのでしょう。
  それが十分にあれば、生半可な気持ちで立候補は出来ないはずです。
  真剣さが不足しているように思われます。

   勿論、如何に頑張って立候補しても、当選しなければ普通の人になるわけです。
  本当に役立つ人なのかどうか、
  投票に際してはある意味で冷めた気持ちを持つことをお勧めします。

   スポーツマンとして、より大事なことは後進の指導です。
  自分よりさらに高みを目指す若者を、
  心込めて指導育成する心構えを自分の中に育てて頂きたいです。

   立候補するなとは言っていません。
  個人の権利ですからどのような行動も社会の良俗に反しなければ良いのです。
  本気でスポーツ振興に役立つならそれも良いのです。

   あくまでも私見ですが、一番大切なのは自分を主張するだけでは駄目です。
  何故なら、自己主張は経験から得た、独善的な要素を多く含むからです。
  自分からの離脱が大事なのです。


   <今月の言葉>

   □ 「出来ないことを悔やむより、何ができるかを考える」

   □ 自分の心はまだ弱い

   □ 自分と勝負できる人間になりたい

   □ 最終的には「自分の心」だ

   □ ないものを求めても仕方ない、出来ることを求める

                170cmのエースアタッカー    高橋みゆき


2010/6/15
   <コーチの仕事>

   あくまでも私見ですが、一番大切なのは自分を主張するだけでは駄目です。
  何故なら、自己主張は経験から得た、独善的な要素を多く含むからです。
  自分からの離脱が大事なのです。

   監督の仕事は、選手やグループを強くすることです。それ以外の何物でもないのです。
  コーチはそれを補佐するのです。表面に出てはいけません。
  コーチが脚光を浴びてはいけないのです。

   それは、団体競技でも個人競技でも一緒です。
  コーチは縁の下の力持ちであれば良いのです。
  それが満足できないコーチは、立場を変えて監督になれば良いのです。

   コーチの目標は選手のレベルアップです。
  どのように育てるかが大きな課題と言えるでしょう。
  前回に、優勝することと書きましたが、レベルアップの集大成がそこに落ち着くのです。

   当時未熟ながらも、卒業後女子高校でテニス部が発足し、その指導を依頼されました。
  好きと若さで、何も知らない選手を引っ張りましたが、いま思えばよくやったと思います。

   その中でも腐心したのは、練習では徹底できない個人の指導を
  どのような方法で行うかでした。
  自分への反省を含めて、選手の自覚を最優先するため日記を書かせたのです。

   自分の目標に対して、今日の反省を書かせて見たのです。
  それは目標を掲げる大事さと、それに対して自分の行動がどうあるべきかを、
  明確にするには役立ったと思います。

   この実施は、選手も真剣に対応してくれました。
  目標に対して、いまの自分がどれほど進捗しているか知って欲しかったのです。
  これに対して、自分の意見を記入して欲しかったのです。

   会社勤めをしながらでしたが、女子高テニス部の初めての試みに
  燃えていたのかも知れません。関係者の熱心さは、本当に選手を強くします。
  いろいろなバックアップが必要です。

   卒業時に、その女子高の先生にならないかとの誘いもありました。
  しかし、就職も決まっていたし、当時の監督が偶々同級生だったので
  話合いを持ち手伝うことになったのです。

   当時は、いまのようにビデオ等があるわけではなく、
  技術的な面を詳細に伝えるのは困難でした。
  自分の持っているものを、どのように伝えれば良いのかいろいろ考えたものです。

   日記の方法は、女子高だったから出来たのかも知れません。
  全員が同じようには出来たわけではないのですが、
  キャプテンが積極的で仲間の気持をうまく代弁してくれたからかも知れません。

   最初は、どのように書いたら良いのか選手にも戸惑いがあったようです。
  日記風に書いて見なさいから始めたのです。
  その中から、テニスに関連する事項を見つけてコメントしたのです。

   一生懸命強くなりたいと思う気持ちは充分にあり、日記からそれが伝わってきました。
  一言一句を噛み砕きながら、何とか真意を探り出し回答を与えて行ったのです。

   それが、どれほど役立ったか分かりませんが、
  自分の課題を探して自分なりの解決を考えている選手は伸び方が違います。
  1年余りで県外遠征が出来るまでに成長したのです。

   日記の使い方は、ある意味では選手の本音を、
  素直な気持ちで引き出す一助になったのではないかと思っています。
  この方法で大切なのは、対応に真剣・誠実さが必要なのです。

   何だ、そのようなことを考えていたのか?
  という言動が、一気に選手のやる気をなくしてしまいます。
  勿論、甘やかせてもいけないのです。書いてしまったものは消せませんから大変です。

   慎重に、選手が何を言いたいのかを文書の中から探り当てる作業は神経を使いますが、
  翌日それを読んだ選手の返事から、理解したことを知るとそれは何物にも勝る喜びでした。

   各選手のフォームを、写真に撮ってノートに貼り付け、参考にしてもらいました。
  これは、自分を客観視出来る唯一の方法ですから、選手にも意外と好評だったようです。

   いまでもその頃の写真や、日記に記載するためのメモ帳が残っています。
  書き込んだ資料は、残しておかないと後日尋ねられた時、
  正確な印象を表せないから困るのです。

   一人の力では限界があり、当時は後輩と連絡を取り
  出来るだけ練習に参加して貰いました。大学でも女子選手は数名でしたから、
  物珍しさもあったのでしょうかよく相手をしてくれました。

   選手の育成で一番よかったのは、テニス経験者が一人しかいなかったのです。
  経験者の指導は難しいです。
  育てるには、その時点からスタートするのは選手に可哀そうです。

   何故なら、基本をきちんと習得しているなら良いのですが、
  中途半端な教え方を身につけていると、まずそれを修正しなければ前に進めないからです。
  その分コーチにも選手にも荷は重くなります。

   その点、一人の経験者は形に嵌っていましたが素直な子で、
  こちらの指導を素直に受け止めてくれました。
  でも、スタイルを変えるのに二人とも大変で随分苦労しました。

   女子高校のテニス部設立は、庭球協会がバックアップしていましたから、
  今から考えると監督も選手も幸せでした。
  当時では女性のトップだった宮城黎子さんにも来校頂きました。

   練習で、いまでも印象に残っているのが、
  当時キャプテンのWさんとのストローク強化の練習試合でした。
  僕はフォアサイドだけへの返球、Wさんはどこを攻めても良いと言う内容でした。

   残り少ないゲームでWさんがポイントを握りました。
  僕の返球がサービスラインのセンター部分に落ちた時、
  前進したWさんがセンターから逆クロスへ打ち込んできたのです。

   やられたと瞬間思いました。選手に奪われる初めてのポイントです。
  しかし、ボールはネットを越せなかったのです。
  Wさんの悔しいさを滲ませた表情はいまでも覚えています。

   ネットした瞬間、Wさんは大きな声を上げ、
  コートに尻もちを付いてその悔しさを身体一杯で示していました。
  でも、その悔しさがトップにさせたのではないかと思っています。

   選手に自信を付けさせるにはどうしたら良いかは、コーチにとって永遠の課題です。
  大学では、テニス部卒業と言われながらも、技術面より精神面に力を入れていました。

   それが、今の自分を育ててくれたのではないかと思っています。
  決して解決の道が近くにあるわけではありません。
  日々の絶え間ない努力こそ、報いられるベースになると思っています。

   厳しかった祖父が、大学の入学祝いで一枚のはがきを呉れました。
  最後に歌が添えられました。
  ”子を想う 親の心はよつでかご しばし安らう 息杖もなし”
  今も忘れられない歌です。

   <今月の言葉>

   □ いかなるものを前にしても あきらめない

                         サミエル・エトー

   □ 駄目だ駄目だではなく、何をすればよいかを考える

   □ 強味を磨いて 弱味を育てる

   □ 他にはないことをやるしかない

                          企業人


     ◇◆<特別ご紹介>◇◆◇◆◇◆

   スポーツに対する新しい考え方です。一度ご訪問ください。

   日本福祉大学バレーボール部監督
   バレー上達の極意研究室代表          川端 健太氏

   脳科学、古武術から学ぶ!スポーツするなら絶対に
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2010/6/1
   <コーチの目標>

   コーチの目標は選手と同様です。いやそれ以上に強いかも知れません。
  それは出場した試合に全て優勝することです。
  選手の優勝がコーチの評価を揺るがぬものにするからです。

   だからと言って、当然ながら勝ちが全てではありません。
  戦う相手を畏敬しながらも、自らを闇雲に卑下することなく、
  同等の力を発揮して戦う中で喜びを分かち合えると思います。

   勝利の大事さは、敗戦の中にあると思います。
  だからこそ、精神面で強い選手は敗戦の自分を見つめ続けるのです。
  そこから何かを得ようと必死になるのです。

   その必死さの中から、勝利への道程が示されるのではないかと考えています。
  そのような選手を育てたいと念願しているのが、
  コーチの最終目標ではないかと思うのです。


   今日は、最近めっきり力を付けたフランスのアラヴァーヌ・レゼーを紹介します。
  勿論ご存じの方も多いと思います。
  プレーを見るのは今回が初めてでした。ある意味ショックでした。

   何と言っても、彼女の素晴らしいのはバランス感覚ではないでしょうか?
  まるでエナン・アーデンを彷彿させる思いを感じました。
  別の表現では彼女以上かも知れません。

   レゼーは23歳で身長は165cm、体重は62kgの体躯です。
  紹介した意味が、これでお分かりでしょう。日本人と殆ど変わりが無いのです。
  デビューは2005年18歳です。

   昨年5月、全仏オープン1回戦で杉山と当たりました。
  引退を控えて脚光を浴びていた杉山との対戦はプレッシャーだったと思いますが、
  6−3・6−2で完勝しているのです。

   フォアは、典型的なウエスターン・グリップでバックは両手打ち。
  得意なテニススタイルは、アタックでハードコートを得意とする、
  ベースラインプレヤーです。

   紹介する気になったのは、先日行われたマドリッド・オープンで、
  ノーシードのレゼーが第4シードのビーナス・ウイリアムスを破って優勝。
  それをTVでたまたま見たのです。

   現在の最高ランクは、シングルスで40位・ダブルスでは118位
  今回の優勝でシングルスが24位に大きくアップしています。
  その力は素晴らしいものがあります。

   試合経過ですが、1セットを取った時は、若さの勢いなのかなと思っていました。
  ところが2セットで2−5となった時は、
  相手がビーナスですからセット連取され終わりかなと思いました。

   しかし、それでは終わらなかったのです。
  ビーナス相手に2−5から挽回し7−5で優勝したのです。
  目を疑うような見事な勝利でした。
  さすがに、終了後は顔を覆っていましたが嬉しかったのでしょう。

   そこには、コート上の彼女ではなく、23歳の可憐な女性を見るような
  一種異様な思いがしていました。若干救われる思いもしました。
  日本人を想像させる気持がしたのです。

   サービスは、右手を後ろへ回すスタイルではなく、
  すぐ前から振りかぶるスタイルでした。伊達と同じですね。
  これはトスとのバランスを考えると安定性はあると思われます。

   フォアの場合は、特に際立ったのはライジング・リターンでした。
  特に、逆クロスは素晴らしいショットです。
  いずれもスイングにバランスの良さを感じました。

   バックは両手打ちですが、フォアと同様ライジングで処理していました。
  ヘッドを立てて構えたフォームは、
  そのままライジングボールを打ち抜く感じで鋭角にコートを横切りました。

   特に感心したのは、レシーブ・ラリーでも殆ど同じ位置です。
  これは相手にとってプレッシャーでしょう。
  どのような場合でも、その場で身体の軸を見事に回しているのです。

   それだけに、テクニカルな細かい操作にイージーミスがありました。
  でも、レベルが違うのでそのようなミスさえ問題にならない状態でした。
  素晴らしい選手だと素直に感じました。

   前述したように、ビーナスに対して対等に戦う精神力は、
  技術以上のものを感じました。
  逆に、追いつめられたビーナスが見せた不安そうな表情は初めて見ました。

   それを泰然と見つめるレゼーがいたのです。
  彼女とて気持は複雑だったと思います。
  しかし、2−5から挽回して7−5で勝利した精神力の素晴らしさは感動ものです。

   技術は練習で補うことが可能です。それを試合で発揮し自分の力を高めるには、
  精神力しかないのです。
  如何に集中力を高めるか、それによって選手の価値が変わるのです。

   単純な比較で失礼かも知れませんが、レゼーに出来て何故日本人に出来ないのか。
  そこに何が不足しているのでしょう。
  気持の中で言い知れぬ苛立ちを感じてしまいます。

   自分のテニスをして欲しいです。その中に自分を見出して欲しいものです。
  思いっきりの自分を出せたら、勝利は目前ではないかと思っているのは間違いでしょうか


    <全仏から得たもの>

   試合はまだ終わっていませんが、日本勢は男女とも敗退しました。
  印象に残ったのは、錦織の胴回りにテーピングした姿と、伊達の終了後のコメントでした。
  いずれも相手に失礼です。

   錦織は、腕ではなく腹部にテーピングをしてました。
  出場する以上は万全であるべきで、テーピングは良い姿ではないです。
  完治しない傷は選手生命を短縮してしまいます。

   周囲がどのように発言しようとも、競技に参加するのは本人ですから
  割りきらなければいけません。
  選手生命をどうするかは周囲の人ではなく選手自身にあるのですから。

   伊達のコメントにはがっかりしました。
  あれが自分自身への苛立ちならば即刻辞めるべきです。
  自分の不調で敗戦したかのようなコメントは、
  相手に対してこれほど無礼な行為はないです。

   悔しさが滲み出ているようですが、万全なら負けていないと感じさせる表現は、
  伊達の経歴に汚点を残すだけだと苦々しい思いです。
  大選手は揺るぎない自分を持って欲しいです。

   それにしても、若手選手の不甲斐なさはどうしたのでしょう。
  男子は病気上がりの錦織だけだし、女子選手期待の奈良くるみ・土居美咲も、
  相手が格上とは言え初戦完敗でした。


   <今月の言葉>

   愚かなりとも 努力を続ける人が 最後の勝利者となる

                                    人見 絹枝

   <人見絹枝のパワーは、その意志力と努力である>


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